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禰(でい)は、東洋史学者岡田英弘によって河内王朝の開祖に比定された倭国の大王。 ==命名の根拠== 岡田は倭王禰(でい)について、『宋書』にいう倭王賛・珍・済の三兄弟の父、『日本書紀』にいう履中天皇・反正天皇・允恭天皇の三兄弟の父仁徳天皇に比定する。また、済の二子興・武を日本書紀にいう安康天皇・雄略天皇の兄弟に比定している。 :禰(仁徳天皇)┬賛(履中天皇) : ├珍(反正天皇) : └済(允恭天皇)┬興(安康天皇) : └武(雄略天皇) 禰の名は、『宋書』に収録されている、倭王武〔ワカタケル大王。『日本書紀』にいう雄略天皇〕が487年に中国南朝の宋に送った表における下記の一節による〔岡田,2008,pp.225,257〕。 :昔より祖禰は、躬(み)に甲冑を貫(まとい)て、山川を跋渉し、寧(やすらか)に處(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。 岡田は「祖禰」について、 ::「ここの「祖禰」は「祖父である禰」の意味で、「禰」は雄略天皇の祖父にあたる仁徳天皇の名前である〔岡田,2008,p.225、「中国の古典の用例では、「禰」は父の霊をまつる廟を指すので、これまでの学説では、「祖禰」は「祖先以来」を意味するものと漠然と解釈されてきたが、それは間違いである。明確の仁徳天皇の事績を伝えようとしているのだ」〕。 ::倭王・武が四八七年に中国の宋朝あての手紙で「祖禰」すなわち祖父なる「禰」の世代以来、海内・海外の征戦に従事してきた、と言っていることで、すくなくとも賛・珍・済の前にもう一代の倭王がなければならない。〔岡田,2008,p.257〕 と解釈し、「禰(でい)」を、倭の五王に先立つ「最初の倭国の王」、「河内王朝の開祖」の名だとみなしている。 しかし「祖禰」という語は、史記以下の正史、経書、政書、仏典などにも多見する普通名詞であり、大多数の賛同を得るには至っていない。 「昔より」という語からしても、複数の先祖たちの征服活動と理解するのが自然である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「禰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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