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秀頼 : ウィキペディア日本語版
豊臣秀頼[とよとみひでより]

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより/とよとみ の ひでより、、文禄2年8月3日1593年8月29日) - 慶長20年5月8日1615年6月4日))は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名天下人
豊臣秀吉の三男。母であり秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階正二位官職右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。
なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。〔村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年(のち『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、に所収)によると、羽柴名字は確認されていない。〕
乳母は宮内卿局右京大夫局(一説に両者は同一人物とも)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。
== 生涯 ==

=== 誕生から秀吉の死まで ===
文禄2年(1593年)、秀吉57歳の時の子で、大坂城で誕生した。
誕生した時にはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の10月には、秀頼と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索したが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこのとき秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名達に血判署名させている。伏見城が建設され秀吉が居城を移すと秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。
慶長元年(1596年)9月、禁裏で元服して藤吉郎秀頼と称す〔月刊歴史読本 2014年11月号〕。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟御掟追加などの基本法や五大老五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。
秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件に伴う五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆく。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toyotomi Hideyori 」があります。



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