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秋保電気鉄道(あきうでんきてつどう)は、かつて宮城県仙台市(現・同市太白区)の長町と同県名取郡秋保村(現・仙台市太白区秋保町)の秋保温泉を結んでいた鉄道である。略称は秋保電鉄(あきうでんてつ)。1961年(昭和36年)に全線が廃止された。 == 概要 == 温泉客の旅客輸送と、秋保石(凝灰岩の一種)の貨物輸送を目的として、1914年(大正3年)に長町 - 秋保温泉間で馬車軌道として開業。路線はおおむね、改正鉄道敷設法別表の「本州ノ部 21. 宮城県長町ヨリ青根附近ニ至ル鉄道」に沿って敷設されており、長町 - 赤石間は笹谷街道、赤石 - 秋保温泉間は二口街道という江戸時代からの街道に沿っていた。時刻表による長町 - 秋保温泉間の所要時間は2時間20分程度であったが、馬の調子に依存して前後した(馬は会社ではなく馭者個人の所有)。カーブで馭者が吹くラッパの音から「トテ馬車」との愛称があった〔21 開業(秋保電鉄) (仙台市 太白区まちづくり推進協議会「ディスカバーたいはく5号」)〕〔(河北新報出版センター)〕。電化を完了して以後は秋保電気鉄道として運営された。所要時間は1時間程度にまで短縮した。 全線開通の後は、川崎町内の青根温泉へと至る路線延長が計画され、結局は実現しなかったが特許は取得していた〔〔。 また2007年(平成19年)7月に仙台市内で発見された「仙山電気鉄道秋保笹谷峠間線路踏査図」(1922年(大正11年)作成)によって、路線を山形県まで延長する計画が存在していたことも判明した。これは川崎町から笹谷峠を越えて山形駅を経由、終点を神町駅とするもので、途中には野上(のじょう)、古関、笹谷の各駅が置かれる予定だった。〔秋保電鉄延長計画 その1 - 鉄の廃路、2014年11月14日閲覧。〕 戦後は車両メーカー手持ちの注文流れの新車を3台導入したが1953年(昭和28年)には経営が悪化、経営再建について宮城県と仙台市に協力を要請していた。そこで、仙台市は市内交通一元化と設備近代化のために、買収を計画する。かねてから設備の改善を仙台陸運局から指摘されていたことや、沿線である秋保村と生出村(双方ともに現、仙台市太白区)、秋保村観光協会から、秋保電鉄買収の請願を出されていたことも要因だった。仙台市交通局に統合、インターアーバンとして仙台市電と一体化して直通運転するという具体案も出ていた(長町駅に市電との連絡線を設け、電車の直通試験が行われたこともあったほか、買収価格や詳細も決まっていたという話もある)が、市議会で買収反対派の巻き返しに会い、買収案は否決された。 営業末期には仙台市南部の住宅地として造成が開始された頃で、朝夕は通勤客で賑わい温泉観光より通勤電車としての姿も見え始めており、本格的な高速鉄道への規格向上も検討されたが結局は最後までトロリーポール集電、バッファ付きのねじ式連結器、スタフ閉塞方式だった秋保電鉄は設備近代化されることなく廃止されている。同時期、仙台市電は全車ボギー車、パンタグラフ集電化、自動信号化(トロリーコンタクターによるポイント操作)を完了していたが、秋保電鉄は悪化した経営状況の中で鉄道線への設備投資を最小限に留めて仙台市内で路線バス事業を行っており、1959年(昭和34年)、仙台市内への路線拡充を望んでいた宮城県内のバス事業者仙南交通自動車と合併して社名が仙南交通となった。合併後ただちにバス転換の準備に入りわずか2年を経ずして鉄道線は廃止された。鉄道線廃止後、仙南交通は合併・統合を繰り返し宮城交通としてバス事業で盛業中である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋保電気鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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