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秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年8月24日) - 昭和25年(1950年)1月19日)は、岡山県出身の政治家、実業家。衆議院議員。 ==人物== 1868年、岡山に生まれる。父の秋山儀四郎は倉敷の出身で、堂島の米相場で成功したのち道頓堀の角座・浪花座を買収した大阪興行界の大物であった〔読売新聞「秋山翁逝く」1915年10月30日付け朝刊5頁〕が、東宝の小林一三によると若い芸妓の尻を追っかけまわす人だった。東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に『二六新報』を社長として創刊。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。 1902年に衆議院議員に当選するが、露探事件でロシアのスパイ疑惑が浮上する。懲罰委員会では証拠はなかったがロシアのスパイである嫌疑がぬぐえないと報告。1904年3月28日に衆議院本会議で議員辞職を勧める処決決議(議員辞職勧告決議)が可決。翌29日に衆議院議員を辞職した。 議員の職を追われた後は政界の黒幕として明治から昭和にかけて活動し、大隈内閣の成立工作とその倒閣運動〔朝日新聞「秋山氏除名事情 非幹部凋落の結果」1915年4月14日朝刊4頁 〕や松島遊郭疑獄への関与の疑い〔読売新聞「一段落を告げた松島事件 抱込まれた箕浦老と醜怪な裏面の事実」1926年5月1日朝刊2頁〕、さらには孫文や蒋介石などの中国大陸の要人との接触〔朝日新聞「“参議”颯爽と登場す 国務院への示唆 『黒幕』は秋山定輔氏」1937年10月15日朝刊3頁〕が取りざたされた。1937年、歌人柳原白蓮の夫である宮崎龍介が中国を訪問しようとして憲兵隊に逮捕された際には、関連を疑われて数日間拘留されている〔朝日新聞「秋山実川両氏留置」〕。また近衛文麿による新体制運動の構築にも協力していた〔朝日新聞「心は透徹“意思表明”の前夜 碁盤に向っても連戦連勝」1939年8月28日付け朝刊11頁〕 。一方で1915年・1917年の総選挙や1928年の東京市長選へ立候補し政界への復帰を目指したが、いずれも落選している〔朝日新聞「児玉、市来、秋山3氏の中から選考 あすの市会に持出すことに決定 昨夜6派選考委員会」1928年1月5日付け朝刊2頁〕。 1950年1月19日午前4時4分、熱海の別荘にて老衰の為死去した。享年81歳〔朝日新聞「秋山定輔氏死去」1950年1月20日付け朝刊2頁〕 。 == 著作 == *『秋山定輔は語る』(村松梢風との共著、講談社、1938年) == 関連書籍 == *日本新聞博物館編著『言葉の戦士 涙香と定輔―明治新聞人の気概を知りたい』 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋山定輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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