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秋山源三郎 秋山 源三郎(あきやま げんざぶろう、永禄5年(1562年)?〔丸島(2015)、p.20〕 - 天正10年3月11日(1582年4月3日)〔)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏家臣。幼名は吉千代、仮名は源三郎〔。別名は景氏。父は金丸筑前守(虎義)で、源三郎は三男〔。義父は秋山虎繁(信友)。兄に金丸昌直、土屋昌続、昌詮、金丸定光、土屋昌恒がいる。『甲斐国志』『武田三代軍記』では諱を「親久」とし、初名は「晴定」としている〔。『甲斐国志』では異説として「近久」「景氏」とする説を記しているが、これは秋山虎繁の諱として伝えられた「晴親・晴近」からの影響が指摘される〔。 「秋山家文書」によれば、兄の昌詮は秋山虎繁の女婿となるが天正7年(1579年)7月23日に病死し、源三郎は下条兵庫助の娘を妻とし、秋山氏を継承したという〔。この時点で源三郎は幼名「吉千代」を名乗っており、下条兵庫助には秋山氏の娘が嫁いでいたと考えられている〔。 『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による武田領侵攻に際しては実兄の土屋昌恒・金丸助六郎とともに武田勝頼に従い、田野で戦死した。『寛永諸家系図伝』によれば、享年17〔。 死後、恵林寺(現・山梨県甲州市塩山小屋敷)に葬られた。『甲斐国志』では法名を「賢英了勇居士」としているが、異説も見られる〔。『寛永伝』によれば、源三郎には男子がおり、伊豆大平へ逃れた土屋氏の一族のもとに落ち延びたとする伝承もある〔。 == 脚注 == 〔
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