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秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3月17日 - 1946年(昭和21年)4月12日)は、国語教育学者で戦時中文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった。 == 生涯 == 秋田喜三郎は、1887年(明治20年)3月17日滋賀県栗太郡上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)に生まれた〔「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会 大和書房 1984年)〕。同郷の上田上村には2歳年下で後に京都帝国大学理学部(天文学)教授で多くのアマチュア天文学者を育てた山本一清がいる。一清の祖父は漢学者山本栗斎で、父は滋賀県内尋常小学校等で実際の教育の場に立った山本清美である。喜三郎はその青年期まで、すぐ近くに当時県内でも有数の教育者がいる中で育った。 1910年(明治43年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)を卒業、同附属小学校訓導となり、1920年(大正9年)には奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大学附属小学校)に転じ、この間、国語教育実践の理論確立につとめ1914年(大正3年)『読方教授の新研』を発表し、以降多くの国語教育に関する著書を記した〔。1935年(昭和10年)神戸市視学(各学校を視察する役職)となるが7カ月で辞任し、以降全国の小学校を回り実際の教育の場を視察すると共に指導にあたり、1941年(昭和16年)から文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった〔。1945年(昭和20年)東京大空襲で被災し、帰郷したが翌1946年(昭和26年)4月12日死去した〔。 生涯多くの国語教育関係図書を発刊している。なかでも『創作的読方教授』にみる「作者想定法」論は、現在の読解鑑賞学習指導に影響を及ぼし、また『初等教育国語教科書発達史』は彼の研究成果を象徴する労作として教育界から高く評価されている。 *創作的読方教授において従来の「意味を無視して一通り読むことだけを行い、その後講義を行う」やり方を批判し、「初めから意味と結びつけて読む」ことの重要性を説いた。また、「作者想定法」は、読解指導において文章中から「作者」を想定する学習方法論で、「作者」とは原作者ではなく読み手が想定する(「仮想の作者」=「語り手」と言うべき存在)。仮想の作者を通じて文章を書こうとした背景を描出し、作者概念を考察する〔「滋賀大国文(37) 1999年7月」 P65「『作者想定』論の進展-昭和初期における秋田喜三郎の実践から 西川暢也」(滋賀大国文会)〕〔「上越教育大学国語研究(25) 2011年2月」 P62「音読学習時の読字行為に関する考察 山口政之」(上越教育大学国語教育学会)〕。 *国民科国語の教科書を、説話教材の新体系、生活教材の新着眼、表現態度の系統、韻文教材の詩情、文語教材の新着想、音声言語の重視、国語教材と語法指導、書簡文の新着想、片仮名の提出法、平仮名の新提出法、漢字の配当、附録教材の採録、の観点から分析した〔「初等教育国語教科書発達史」(秋田喜三郎著 文化評論出版 1977年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋田喜三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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