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秋田県立秋田高等学校(あきたけんりつあきたこうとうがっこう)は、秋田県秋田市に所在する県立高等学校。秋高(しゅうこう)の通称で呼ばれている。 == 概観 == 1873年(明治6年)に洋学校として設立され、旧学制下の中学校等を経て戦後の学制改革で新制高等学校となった。 学校当局が「現存する高校の中では全国で4番目の歴史を持つ」と主張していたこともあった〔例えば第23代校長・小野襄は、創立60周年記念式典において「(前略)全国を通じて創立六十周年を迎えた中学校は、わずか三校にすぎない。(後略)」と述べている(数字は原文のまま漢数字とした)。また、第32代校長・秋山光雄は校史の巻頭言において「(前略)本校は明治六年、廃藩置県の後をうけて創立された洋学校を濫觴とし、古きこと全国の第四位に位置するものであります。(後略)」と記している(数字は原文のまま漢数字とした)。〕が、現在では学制公布以後の創立校に限定しても少なくとも8番目以降の創立であることが判明している〔日本の高等学校設立年表〕。 秋田県立大曲農業高等学校(旧農業試験場並びに農業専修科が独立)及び秋田県立秋田明徳館高等学校(旧定時制課程が独立)は、この学校から派生した学校である(年表を参照)。 戦前、対外試合等の場で生徒が「矢留(やどめ)軍」と自称し、野球部等のユニフォームにも「YADOME」と記していた時期があるため、他の高校の校史や郷土史関係の資料には「矢留中学」と誤記されることがある〔「矢留軍の歌」をはじめとする一連の応援歌や「鎧袖一触 矢留軍」という応援幟など、現在でも応援には「矢留」の語が多用されている。〕。 自主自律の精神が尊重されており、生徒主体の行事運営をはじめ活発な生徒会活動が行われている〔秋田県立秋田高等学校/生徒会活動・秋高三大行事 〕ほか、昭和40年代から「応援の自由」「着帽の自由」「着装の自由」〔当時盛んであった学生運動の時流に乗ったものではあり、急進的な着装自由化賛成派生徒の感情が激化したこともあったが、結局形の上では同盟休校等の実力行使もなく、生徒・職員間の合同委員会によって2年半という期間をかけて実現した()。しかしながら、着装自由化運動当時生徒会長を務めた卒業生は、当時の生徒側の雰囲気を「確実な反対者がいるにもかかわらず、彼らは自分の意見を表明することができなくなっていたのである。」「あの時の様相は明らかに全体主義の姿勢をもっていた。反対者などいるわけがない、賛成するのが当然な生徒のあるべき態度という雰囲気だったのである。」(前掲書 p.453)と述懐している。〕〔県内の全日制高校としては唯一、私服通学が認められている学校である。〕等を実現してきた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋田県立秋田高等学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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