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李 應俊(イ・ウンジュン、1890年8月12日 - 1985年7月8日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては中将。本貫は商山李氏()。号は秋研(チュヨン、)。創氏改名による日本名は香山 武俊(かやま たけとし)。 == 経歴 == === 第二次世界大戦まで === 平安南道安州郡に生まれる。郷里で漢学を学んでいる最中だった1906年に、漢城へ移り、近代的な教育を受ける事となる。その際、日本の陸軍士官学校の卒業生である盧伯麟と李甲の影響を受け、軍人になる事を決心する。 李甲の支援により普成中学校とを卒業した後、1909年に日本へ留学し、陸軍中央幼年学校を経て、1914年に陸軍士官学校(第26期)を卒業し、少尉に任官した。同期には栗林忠道、洪思翊、池青天などがいる。第1師団歩兵第3連隊に配属。1916年、陸軍歩兵学校に入校して3か月間教育を受けた後、中尉に昇進した〔。 第二次日韓協約締結と同時に、李甲が独立運動に身を投じてからは、李應俊自身も独立運動に加担するようになった。1919年に三・一独立運動が起きた際は、金擎天や池青天と共に中国への亡命を試みた。しかし金と池が亡命を決行して武装蜂起による独立運動を行ったのとは異なり、李は洪思翊などと同様に日本軍に留まり続けた。 十月革命が起きた翌年の1918年に、日本軍はシベリア地域で反革命軍を支援した。同地域の赤化を阻むために出兵(シベリア出兵)し、李も中尉として出征命令を受け、ウラジオストクに派遣された。 1920年4月、第20師団第40旅団歩兵第79連隊に配属〔。1925年、大尉に昇進し、大隊副官を経て中隊長に任命される〔。1928年5月に済南事件が起こると奉天に派遣された〔。1933年、第20師団第79連隊副官〔。1934年8月、第20師団第79連隊大隊長〔。 その後は、満州などでの勤務を経て、1936年に中佐に昇進してからは、京城医学専門学校と京城薬学専門学校で配属将校として勤めた。 1937年に日中戦争が始まってからは、師団司令部や北支那方面軍司令部などで勤めた。主に兵務や兵站輸送の業務に従事したが、直接戦闘に参加する事も多く、山東省では八路軍ゲリラ討伐部隊の指揮官を務めた。 1940年8月から1942年まで朝鮮軍大邱本部に勤務〔。1941年の大佐昇進と時をほぼ同じくして、太平洋戦争が勃発して以降は、学徒動員へ参加する様に呼びかける講演活動などを積極的に行った。 1943年7月、第7旅団の討伐部隊指揮官として八路軍鎮圧に従事〔。1944年、龍山停車場司令官〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李應俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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