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秩父丸 (蟹工船)[ちちぶまる]
秩父丸(ちちぶまる)は、大正時代に日本で運用されていた工船(en)の1隻である。今井六郎を船主とし、北東貿易会社に傭船されて、北洋漁業で漁獲されたカニの缶詰加工に使用されていた〔『函館市史 通説編第3巻』、1086-1087頁。 〕。1926年(大正15年)4月に、暴風により座礁沈没し、182人が死亡した。本船の遭難事故は、小説『蟹工船』の題材の一部となった〔「“蟹工船”は実際にあった話なの? 」『しんぶん赤旗』2007年12月8日。〕。 == 船歴 ==
本船は、1878年(明治11年)5月にイギリスで進水した。船体は鉄製で、トン数は1924年(大正13年)末時点で1540総トンとなっている〔。1911年(明治44年)に、原船名「バイカラ」だった本船は、日本船籍に移って「秩父丸」と改名した〔逓信省管船局(編) 『明治四十四年 日本船名録』 帝国海事協会、1911年;同書の収録範囲である1910年末時点では日本船として未登録。〕〔逓信省管船局(編) 『明治四十五年 日本船名録』 帝国海事協会、1912年、登簿船汽船の部111頁。〕。1911年末時点の船主は榎本謙七郎、船籍地は神戸港となっている〔。その後、船主を転々とし、1923年(大正12年)には笹川喜三郎から今井六郎へ譲渡され、船籍地も京都府与謝郡宮津港から和歌山県西牟婁郡西富田港に移された〔逓信省管船局(編) 『大正十二年 日本船名録』 帝国海事協会、1923年、登簿船汽船の部54頁。〕〔逓信省管船局(編) 『大正十三年 日本汽船船名録』 帝国海事協会、1924年、55頁。〕。 本船が遭難した1926年時点では、北東貿易会社に傭船され、蟹工船として使用されていた。同種の蟹工船は1920年(大正9年)頃から北洋漁業での底刺し網漁に投入され始め、1926年には12隻が操業していた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秩父丸 (蟹工船)」の詳細全文を読む
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