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稙田氏
稙田氏(わさだうじ、わさだし)は、豊後国の氏族。 『古事記』、『日本書紀』では、素戔嗚(スサノオ)6世孫の出雲族である大神神社の大物主(大国主)を祖とする大三輪氏から起こるとされた平安時代の大神氏の流れを汲む大神惟基の子、惟平(コレヒラ)が豊後国大分郡稙田に住して、稙田氏を名乗ったことに始まる。 豊後の大神氏系譜には、戦国武将の大友宗麟もいる。
== 歴史 == 豊後大神氏は大和大神氏(ヤマトオオミワシ)の流れをくむ一族とするのが有力である。大神氏(オオミワシ)は、大和大神社神(ヤマトオオミワジンジャ)の大神主家(オオカンヌシケ)に由来する一族で、大神姓三輪氏にも繋がる高家である(後に高宮氏)。『大神神社』の由緒によれば、大神神社は遠い神代の昔、大己貴神(オオナムチノカミ、大国主神に同じ)が自らの幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(オオモノヌシノカミ)の御名をもって御祀りしたのが始まりという。以来、大三輪之神(オオミワノカミ)として世に知られ「大神」を「おおみわ」として崇敬を集めた。大神氏は崇神天皇の御代に大神君(オオミワノキミ)姓を、天武天皇の頃大神朝臣(オオミワノアソン)を賜ったという。豊後大神氏は平安後期、豊後國南部、大分、大野、直入、佐伯地方を拠点に活躍した武士集団である。拠点の大野直入の原野で馬を飼育、馬を巧みに操り弓矢打ちに長け、武力を背景に要職を手に入れ、農民支配を行い、武士集団として豊後國における武家世代を成立させていった一族である。豊後大神氏は大和大神氏(ヤマトオオミワシ)の流れをくむ一族とするのが有力である。(『緒方三郎惟榮』(渡辺澄夫)『大分歴史事典』(大分放送)より)『豊後國志』(岡藩 唐橋世濟 復刻版)から、豊後大神氏の歴史上の出来事では、豊後國が「大友能直」に与えられ、建久7年(1196)能直の縁者「古庄四郎重能(フルショシゲヨシ)能直の弟」が豊後國入りした時、大神一族は激しく抵抗した。なかでも阿南惟家は高崎城(高崎山)に弟の阿南弥次郎家親は戸次庄利光の山に、大野九朗泰基(オオノクロウヤスモト)神角寺城に立て篭もり抵抗したが、豊後國守護職(ブンゴシュゴシキ)に補任(ブニン)任じられた「中原親能(ナカハラチカヨシ)」の派遣した「源壹(ミナモトノサカン)」に誅伐される。但泰基の謀反は、大友文書録建久7年(1196)で当時豊後守護職中原親能に対する抵抗で有ったと言う。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稙田氏」の詳細全文を読む
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