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種子島 時休(たねがしま ときやす、明治35年(1902年)7月20日 – 昭和62年(1987年)8月7日)は、元海軍技術大佐。大学教授。日本初のジェット機橘花の開発者として著名である。 == 経歴 == 薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時彦。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。 大正11年(1921年)に海軍機関学校を卒業し、昭和4年(1929年)に海軍大学校選科合格、翌年には東京帝国大学航空学科に入学。昭和6年(1931年)に大野千代子と結婚。昭和8年(1933年)、東京帝大航空学科を卒業。昭和10年(1935年)の4月から2年に渡ってフランスへと留学。帰国後の昭和13年(1938年)6月から海軍航空本部等で勤務する。この頃より、ガスタービン開発に取り組み、また海外で研究の進むジェットエンジンの有用性を痛感。海軍航空技術廠において部下の永野治海軍大尉らとその研究に没頭した。 昭和18年(1943年)には海軍大佐に任ぜられる。昭和20年(1945年)7月、東北帝国大学から工学博士号を授与される。同年8月7日。日本初のジェット機である橘花の試験飛行に成功する。 戦後は昭和22年(1947年)から30年(1955年)にかけて日産自動車株式会社に勤務。昭和32年(1957年)には石川島重工業技術研究所顧問となる。昭和34年(1959年)から45年(1970年)には防衛大学校の教授となり、同時期には東海大学教授として教鞭を執った。 定年退官に際し、戦時中若くして散った特攻隊員への謝罪と、技術者としての反省を込め、「太平洋海戦と軍人技術者の反省」という題で文をまとめた。この文の中で「軍人技術者として、軍令部の用兵家に技術面から真実を説得する勇気ある技術者がいなかった結果、戦略上の誤りを正すことができなかった」と、時休は悔恨している。 昭和47年(1972年)には叙勲され、正五位勲三等旭日章を授かる。昭和54年(1979年)、公益社団法人日本ガスタービン学会名誉会員第一号となる。 昭和62年(1987年)、8月7日死去。奇しくもこの日は橘花初飛行の日と同じであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「種子島時休」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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