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種子島時堯(たねがしま ときたか)は、戦国時代の武将。種子島氏第14代島主。 == 生涯 == 享禄元年(1528年)、種子島氏第13代島主・種子島恵時の子として誕生。 『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。好奇心旺盛な数え年16歳の時堯は、この時鉄炮の威力を見て2挺を購入。鍛冶職人八板金兵衛に命じて、鉄炮を分解させて調べさせ、鉄炮製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。これにちなんで、鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼす事になった。なお文書には、この時のやり取りで主に時堯の名が見られることから、これ以前に父・恵時から実質的な家督継承が行われていたようである。 また時堯は、島津忠良の娘を娶り、弘治元年(1555年)には島津貴久に従い大隅国攻めに参加した。正室との間には2人の娘を儲けた。特に次女の妙蓮夫人(円信院殿)は、貴久の嫡男・義久に後妻として嫁いだ。その一方で、島津氏と争っていた禰寝氏からも姫を密かに迎えて側室にし、男子が生まれたのをひた隠しにしていたが、これを知り怒った時堯夫人は、娘2人を連れて種子島を出て鹿児島に帰ってしまったという(その後、夫人は肝付兼盛に再嫁する)。この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次で、次男の久時は黒木氏の娘との間に生まれた子である。 永禄3年(1560年)に家督を長男の時次に譲るが、永禄5年(1562年)に7歳で早世したため家督に復した。後に次男の久時が家督を継いだ。 天正7年(1579年)、死去。享年52。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「種子島時尭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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