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種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15日~1948年(昭和23年)9月5日)は、日本の官僚、実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の初代社長を務めた。 ==来歴・人物== 1883年に元大垣藩士種田邁(つとむ)の3男として生まれ、本家の断絶を防ぐために養子へ出された。元々一族は、母方を含めて南満州鉄道総裁、安田海上火災の幹部など実業界に関わるものが多い名門家であり、種田虎雄も富士見小学校、開成中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学科と進学した。一高時代に、同期の十河信二(後、国鉄第4代総裁)と知り合い、後に親友となっている。 1909年の帝大卒業後、内閣鉄道院→鉄道省に入る。種田はこの時、帝大卒業者の多くが入社後直ぐに幹部となる中、「現業の一番下からやりたいから、地方に出してください」と主張し、静岡駅の勤務に就いた。その後、雑役からさまざまな職場を歴任して、助役になっている。 その後、甲府運輸事務局に勤務して富士五湖の観光価値に注目し、本省に戻って旅客課長となると、「乗せてつかわす」のような旅客サービスを考えない姿勢を嫌い、富士五湖や房総半島の観光券発行、冬季における乗客減への対処としてスキー・スケートに着目した『雪国の旅』という映画を作製するなど、サービス向上に努めた。 その頃、近鉄の前身である大阪電気軌道(大軌)社長の金森又一郎は、有力な専務を探して種田に目をつけ、入社を請願する。種田は省への未練から当初は渋ったが、若槻禮次郎内閣が崩壊した1927年に大軌専務へ就任した。なおこの年には、後に社長となる佐伯勇も入社している。 種田は、大軌子会社の参宮急行電鉄(参急)による伊勢進出に関与し、名古屋進出のため関西急行電鉄(関急電)の設立にも尽力するが、1937年に金森が逝去したことで社長に就任した。 その後大軌は、子会社である関急電や参急などを統合して関西急行鉄道(関急)となり、さらには大阪鉄道(大鉄)などの合併で現在の近鉄の原型がつくられるが、1944年には政府の命令による南海鉄道との合併がなされ、近畿日本鉄道(近鉄)となった。しかし、戦時中のことであって体制には無理があり、種田は自ら望んだ合併ではなかったと、後にこのことについて述べているが、その初代社長に就任した。だが、空襲などの被災や続発する列車事故への対処などが、近鉄社長時代の仕事の殆どであったといわれている。 1946年に大和文華館の設立を行うが、公職追放令に基づく戦前の大企業幹部を追放する方針が打ち出されたことから、1947年3月に南海電気鉄道(南海)の近鉄からの分離作業を終わらせた後、同年4月25日に社長を辞任した。 翌年、持病の心臓弁膜症が悪化し、9月5日に逝去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「種田虎雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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