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種苗交換会(しゅびょうこうかんかい)とは、秋田県で毎年秋に開催されている農業イベント。元々は手作りの作物や種子を持ち寄りお互いに見せ合い、交換することを目的としたイベントであったが、現在ではそれに限らず農業に関連する様々な展示・販売等をも行う総合イベントとなっている。 == 歴史 == 1878年(明治11年)11月29日から1週間、秋田県南秋田郡八橋村(現:秋田市八橋)の県営植物園で、石川理紀之助が中心となり農作物の種子を交換し合うイベントが開催された。このイベントは種子交換会と名付けられており、これが現在の種苗交換会の原点であった。 当時の秋田県産業の中心であった農業には、課題が山積みだった。乾燥法の不備から腐れ米と呼ばれる稲の腐敗がたびたび生じ、市場における秋田米の評判を落としていた。また、桑・菜種・果樹などの商品作物の発展、西洋技術の導入、在来農法の改善などが、勧業行政の課題として注目されていた。そのときの県令であった石田英吉は、各地の老農層の知恵と経験を生かし、これらの課題を解決するために、1878年、全県45名の老農を勧業係に取り立てた。その中に、老農の代表である石川理紀之助もいた。続いて、秋田県勧業課長だった樋田魯一が主催し、秋田市の浄願寺を会場にして第1回の勧業会議が開催された。そのとき、由利郡平沢(現:にかほ市平沢)の佐藤九十郎から「種子交換の見込書」が提議され、これを樋田会頭が採用し、種苗交換会が開催されることになった。 第1回目の出品数は、稲65点、大豆19点、小豆6点、アワ14点、その他合計132点であった。出品者は、自分の作物と比べて優れているものには、交換希望の入札をした。その数は564人にも達した。 種子交換会は、会をかさねるごとに発展し、1882年(明治15年)には、水稲566点、全体で1752点もの数が出品されるようになった。この年から名称も現在の「種苗交換会」に改め、勧業会議(現在の談話会)を合体させ、農民たちにより役立つように運営された。順調に推移した種苗交換会であるが、財政負担に悩む県は隔年開催を打ち出した。この時、農の祭典を毎年開催すべきであると主張し、それを自力で実行したのが石川理紀之助を中心とする「歴観農話連」であった。 (明治12年、県は地域指導に当たった4老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業ご用係に任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず。・・・」の趣意で始まる歴観農話連が設立され石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。) その後、交換会は明治30年(1897年)代に秋田県農会〔それまでは県および農話連が主催。県農会はその後1944年(昭和19年)に県農業会、1948年(昭和23年)に県生産農協連、さらに1954年(昭和29年)に県農協中央会と変遷を受けた。〕の手に移され、明治40年(1907年代)には開催地として県内各市町村が持ち回りで引き受けるようになった〔それまでは、秋田市内でのみ開催されていた。〕。 これ以降、種苗交換会は昭和恐慌や太平洋戦争などの困難を乗り越えながら1年も休まずに開催され、伝統を守りながらも、他の関連行事をも巻き込みながら、秋田県最大級のイベントとして発展継承されてきた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「種苗交換会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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