|
稲村 三伯〔弟大吉の借財の件で、江戸で退藩し、海上髄鴎と名を改め下総国稲毛村に身を隠した〕(いなむら さんぱく、宝暦8年(1758年) - 文化8年1月16日(1811年2月9日))は、江戸時代後期の蘭学者。幼名は龍介〔『鳥取県大百科事典』64頁〕、名は箭〔、字は白羽〔。号は原昆堂、白髪書生〔。 石井庄助、宇田川玄真らの協力で、ハルマの蘭仏辞典を基に寛政8年(1796年)日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させる。 == 生涯 == 現在の鳥取市川端に生まれる〔。町医・松井如水の三男〔。明和7年(1770年)藩医・稲村三杏の養子に入る〔。 明和8年(1771年)藩校・尚徳館に学ぶ〔『因伯洋学史話』49頁〕。安永5年(1776年)福岡の亀井南冥について医学と儒学を学び、更に長崎に出て蘭方を学んだ〔。天明元年(1781年)、三杏の没後に藩医を継いだが、その後も京都で医学修業した〔。 その後、大槻玄沢の『蘭学階梯』を読み発奮し、寛政4年(1792年)に江戸に出て、藩邸に勤めながら玄沢の門に入り、蘭学を修業した〔。寛政8年(1796年)、長崎通詞石井恒右衛門や同門の桂川甫周、宇田川玄真らの協力を得て、日本で最初の蘭和辞書『ハルマ和解』を完成し、刊行した〔。 享和2年(1802年)、弟大吉の借銭の問題で退藩し、下総海上郡などを遍歴し、名を海上随鴎と改めて医業をした〔。 文化3年(1806年)、京都に出て蘭学塾を開き、京都、大坂の蘭学興隆のもとをつくった〔。 文化8年(1811年)1月16日、54歳で没す〔。明治になって従四位が追贈された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲村三伯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|