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稲津祇空 : ウィキペディア日本語版
稲津祇空[いなづ ぎくう]

稲津祇空(いなづ ぎくう、寛文3年(1663年) - 享保18年4月23日1733年6月5日) )は江戸時代前期の俳人。屋号は伊丹屋、通称は五郎右衛門、別号に青流(洞)、敬雨、竹尊者、玉笥山人、有無庵、石霜庵など。
当初談林派俳壇で活動したが、後に松尾芭蕉宗祇の隠棲的な俳風を志向し、後世法師風と称される一派を築いた〔正木風状『きゝ盃』〕。弟に椎本芳室がいる。
== 生涯 ==

=== 青流時代 ===
寛文3年(1663年)大坂に生まれる。当初は青流と号し、弟と共に談林派岡西惟中に師事した。延宝9年(1681年)、讃岐国観音寺興昌寺山崎宗鑑創建の一夜庵が再建されるに当たり、8月24日に開かれた百韻連衆に加わり、『一夜庵建立縁起』に入句したのが確認できる最初の活動である。
元禄7年(1694年)頃に移住し、元禄7年(1694年)9月14日畦止亭における句会では松尾芭蕉と接した、この後自身が病床に就く間、芭蕉は翌月世を去り、一度きりの対面となった〔祇空『住吉物語』〕。元禄8年(1695年)『住吉物語』を撰じた。この頃には師惟中は俳壇から遠ざっており、以降は専ら椎本才麿の撰集に入句する。
元禄14年(1701年)、芭蕉の遺風を慕い、紀伊国屋文左衛門を頼って江戸に移住、宝井其角松木淡々等と交わった。宝永4年(1707年)其角死去に際し、追善句集『類柑子』編纂に参画する。宝永6年(1709年)5月、貴志沾洲堀内仙鶴等と大和国に遊んだ。正徳元年(1711年)冬、隅田川畔の庵崎と呼ばれた地の内、向島弘福寺門前に有無庵を構えた〔仲祇徳『去来今』〕。庵号は在原業平土佐日記』において隅田川で詠まれた句で、言問橋の由来ともなった「名にし負はゞいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと」に由来する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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