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稲田悦子 : ウィキペディア日本語版
稲田悦子[いなだ えつこ]

稲田 悦子(いなだ えつこ、1924年2月8日 - 2003年7月8日)は、日本の女性フィギュアスケート選手、コーチ。1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック女子シングル日本代表。戦前、戦後合わせて全日本選手権7回優勝。日本の女子フィギュアスケートの先駆者でもある。大阪府大阪市出身。梅花高等女学校(現・梅花高等学校)卒業。
== 経歴 ==

=== 小学生でオリンピック出場 ===
1924年(大正13年)、大阪の稲田時計店の末娘として生まれる。1932年(昭和7年)、8歳のときから永井康三にスケートの指導を受け、才能を開花させた。1935年、第6回全日本選手権女子シングルで優勝し、初代選手権者となった。
1936年(昭和11年)1月にベルリンで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権に出場し、その際にはドイツの総統アドルフ・ヒトラーと握手している。
同年2月、ドイツで行われたガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに12歳で出場。これは2014年現在に於けるオリンピック日本人最年少出場記録(夏・冬を通して)であるのみならず、第二次世界大戦前の冬季オリンピックに参加した唯一の日本女子選手であるなど歴史的な出場であったため、日本の女子フィギュアスケートの先駆けの選手として有名である。この大会では白い服に赤いカーネーションを付けた衣装を着て、ドイツのミリタリーマーチで演技し人気を呼んだ〔1983年3月7日 朝日新聞 (17)(18)〕。成績は26人中10位であったが、この大会で優勝し3連覇を飾ったソニア・ヘニーは「近い将来必ず稲田の時代が来る」と断言した〔。稲田は練習するヘニーを見て憧れ、晩年にオスロのヘニーの自宅を訪ねたことがある。なお、このガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック出場時にもスピードスケート代表の南洞邦夫と共に、観覧に来ていたアドルフ・ヒトラーと握手をしている〔出典:2003年7月22日夕刊 朝日新聞〕。開会式でヒトラーが「あの小さな少女は何をしに来ているのか?」と側近に訪ねたという。
オリンピック後の3月にパリで行われた世界フィギュアスケート選手権では10位となっている〔WORLD FIGURE SKATING CHAMPIONSHIPS 1930-1939 SKATE Database〕。
1937年から1941年まで全日本選手権女子シングルで5連覇を達成する〔1977年渡部絵美に破られるまでの最高記録だった。〕。1938年には橋本國彦が稲田の活躍を讃え、行進曲「楽しきスケーター」を作曲、ワルター・ペータースのワルツ「昇る太陽」と共に録音しビクターからレコードが発売された。
1940年(昭和15年)の札幌オリンピックの有力な選手として期待された。しかし、日中戦争長期化等国際情勢悪化により1938年に日本が札幌オリンピックを返上したため、2度目のオリンピック出場の機会は失われた。
梅花高等女学校を卒業後は、専門学校で英文を学んだ。第二次世界大戦中は満州に慰問に行き、凍った川でスケートを滑ったことがあるという〔出典:1997年8月15日 朝日新聞〕。1945年(昭和20年)の終戦は奈良県で迎えた。終戦の翌年に結婚し家庭に入った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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