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稲田紀男[いなだ のりお] 稲田 紀男(いなだ のりお、1950年3月 - )は、日本の実業家、文化プロデューサー、コンセプトプロデューサー、編集者。株式会社ブレーンセンターの創業者、社長、編集長。 シネ・ヌーヴォ取締役、シネ・ピピア取締役、テレビ大阪放送番組審議会委員、大阪国際メディア図書館(旧宝塚メディア図書館)理事、コミュニティシネマ大阪理事、朝日21関西スクエア会員を務める。〔 〕〔 〕 == 経歴・人物 == 1950年(昭和25年)3月、新潟県生まれ。兵庫県で育つ。1975年(昭和50年)、ブレーンセンターを創業。稲田紀男(現代表)と清水信夫(現「マイ奈良」編集長)の2人だけで「金なしコネなし学歴なし」「シラけず世の中を真っ正面から見、堂々と意見を述べ、渦巻く衝動をぶつけます」「ぺしゃんこにされてもへこたれないぞ」「どこの出版社も出さないけれど、残さなければならない本がある、そういう本を出したい」を掲げ出版社をスタートさせた。〔 〕 専門分野は、出版文化、映像文化、文化経済学、若者文化、新左翼運動、出版編集(人権・環境・アートなど)、タウン誌出版、広報出版(IR、環境報告書、CSRレポート)マルチメディア、文化の仕掛け、起業準備、企業コミュニケーション、都市計画、ラディカル左翼研究、社会運動研究。〔 〕〔 〕 文化的価値と経済的な側面を両立させるプロデュース方法をとっており、文化的価値を見出し、その関連事項の企画を起こし、資金を調達する。その資金をスタッフに分配し、組織を創設・運営させる事により、経済的に利益を創出している。また、その利益を使って、別の文化的価値を見出し、そこに資金を投入する事により、文化的価値を世に拡大させている。〔 〕 主な実績として、適塾の伝統を受け継ぎ、「大阪の智恵の継承」をする昭和の賢人のメッセージ、昭和の遺言書「なにわ塾叢書」(全83巻)の刊行。プロデューサーを大島渚とした日本映画講座を開始。今江祥智、残間里江子、小山明子、椎名誠らを迎え「ジュリア文学学校」を開校。 中島らもらを迎え、元気マガジン創刊記念イベントとして10代の若者400人が結集させた「共通三次わいわいラジオ」の実施。 日本の中の朝鮮文化を訪ねて150人が50kmを歩く「日朝フリーウェイ」の実施。 宗秋月「猪飼野・女・愛・うた」を発行。 司馬遼太郎、梅棹忠夫、小松左京、木村重信などによる大阪府文化問題懇話会の提言をまとめた「地球時代の大阪文化」を発行。日本で初めてのコリアン人名字典として注目された「韓国・朝鮮人名仮名表記字典」を発行。国際花と緑の博覧会「花博写真美術館」開館にあたり、企画に参加。日本を代表する写真家の東松照明が10数年にわたり撮り続けた作品集「さくら・桜・サクラ」を発行。写真専門ギャラリー「ブレーンセンターギャラリー」を大阪駅前第3ビルにオープンさせる。アートと建築が一体化となった独創的な建物で世界的にも例がない「ブレーンセンター 風の万華鏡」を竣工させる。現在の大阪国際メディア図書館(旧宝塚メディア図書館)である「写真図書館」の創設に参加。産経新聞大阪本社編集局 編「阪神大震災3ヶ月」を発行。市民が出資し、劇団維新派が建築したアート映画館「シネ・ヌーヴォ」(大阪市西区九条)の運営に参加。日本初の公設民営の映画館「シネ・ピピア」の設立・経営に参加。新宮晋の「ウィンドキャラバン」自然の中展覧会を行いながら世界を回るプロジェクト。その報告書を発行。「コミュニティシネマ大阪」設立に参加。大阪があゆんできた道を、「光と影」、「栄光と挫折」の両面から振り返る「新なにわ塾叢書」(全7巻)を刊行。「後藤正治ノンフィクション集」(全10巻、文庫本)の刊行を開始させる。新宮晋 著「ぼくの頭の中」(絵コンテ・写真・設計図・エッセー。全文和英併記、新宮晋手書き)を発行。被爆70年、被災20年の節目に三田村陽「hiroshima element」(写真集)、太田順一「無常の菅原商店街」(写真集)を発行、などがある。〔 〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲田紀男」の詳細全文を読む
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