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十代目稲葉地一家(じゅうだいめ いなばじいっか)は、名古屋市に本拠を置く日本の暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の3次団体(上部団体は三代目弘道会)。東海地方では瀬戸一家、平野家一家とともに暖簾の古い博徒一家として知られる。 == 略歴 == 愛知郡中村大字日比津に拠点を置いた日比津善七こと富田善七が幕末から明治初期にかけて名古屋西部地方に大勢力を築く。善七は清水次郎長の舎弟という説があるが、真偽は不明。善七には日比津の七人衆と呼ばれる以下の有力な子分らがいた。 *稲葉地甚之助こと村上甚之助 *水車藤三郎こと今津藤三郎 *鬼頭由次郎 *桜木藤吉 *伊藤忠左衛門 *小田井徳 *富田鍋吉こと富田鍋次郎(善七の実子) 明治12年、善七が死亡し筆頭子分の村上甚之助が跡目を継承、この頃勢力は名古屋一帯にまで広がった。甚之助が愛知郡中村大字稲葉地の出身であったことより稲葉地一家を名乗るようになった。舎弟に水野三之助、子分に今枝藤三郎、十二番孫三郎、新川常こと宮崎常吉らがいた。 明治23年、甚之助が死亡し今津藤三郎が三代目を継承した。 大正6年、藤三郎が隠退しイサバヤ政こと今枝正次郎を跡目に指名したが、力不足であったため富田鍋次郎と共同で跡目を預かることとなった。政次郎は旧郡部一帯、鍋次郎は旧市部一帯を取り仕切ったがその後鍋次郎が旅に出たため政次郎が実権を掌握した。 中京抗争の終結後の昭和60年前後、瀬戸一家、平野屋一家、運命共同会、導友会とともに愛知県下の独立任侠団体の親睦会である中京五社会を結成する。 平成3年、名古屋抗争が起こり、中京五社会加盟団体が相次いで山口組や弘道会へ加入し、稲葉地一家も弘道会の傘下となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲葉地一家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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