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稲葉 正利(いなば まさとし)は、江戸時代前期の武士。徳川忠長の家臣〔山本博文・小宮木代良、1996年、“所報 - 刊行物紹介「大日本近世史料 細川家史料 十五」 ”。東京大学史料編纂所報 第31号(東京大学史料編纂所 1996年発行)より。 2009-04-26 閲覧。〕〔山本博文、1994年、“身柄「お預け」”。『サムライの掟』(ISBN 978-4-12-203826-4 中公文庫 2001年5月発行)より。初出は THIS IS 読売 94年12月号に掲載の連載記事。〕。稲葉正成の五男。 == 生涯 == 慶長8年(1603年)、岡山藩主・小早川秀秋に仕えた稲葉正成と、継室の福(後の春日局)の間に生まれる。前年に小早川家は無嗣改易となっており、正利の誕生時は父は浪人であった。慶長9年(1604年)、母は徳川家光の乳母に採用され父母は離縁するが、後に父も徳川家康に召し出される。正利は徳川家光の弟・忠長に付けられた〔〔。 主君・忠長が寛永9年(1632年)10月、不行跡のため兄・家光により除封、上野国高崎へ流され、家臣も連座として処分を受けることとなった。翌10年(1633年)12月に忠長が自害させられたのち、寛永11年(1634年)3月、正利は身柄を高崎から肥後国へと移され〔、細川忠利の預かりとされた〔〔。なお、配流先として肥後国が選ばれたことは、母・春日局と兄・正勝が細川忠利の承諾を得たことによるが、家光も内々には了解していた模様である〔。他にも忠利は春日局と縁戚関係にあり〔、正勝とは親友同士ということもあった〔。 正利は、用人1人、小姓1人、武家奉公人6人及び、世話係として商人の惣兵衛を伴って肥後へ移された〔。当初は菊池郡(現菊池市)隈府に置かれて過ごしたが、寛永12年(1635年)春、肥後国内を自由に歩けるよう要望し断わられている〔。この頃から様々な不行跡を働き、度々忠利より諌められたが〔、春日局らとの関係上、丁重に扱われた〔。寛永14年(1637年)春に、独断で熊本城下へ出かけており、以後は熊本に置かれることとなった〔。その後も奇行は続いたため、正利が自害すべきことを春日局が示唆するまでとなった〔。忠利の死後も熊本藩は正利に度々煩わされている〔。 正利は熊本へ移ってまもなく、身の周りの世話をする女性を所望し、おいわが長崎より呼ばれた〔〔。領内の女では正利が処分を解かれて帰る際など、出国の可否で問題を生じかねないため、幕府直轄地の長崎で探すこととしたのである〔。おいわは正利の気に入るところとなり召し仕えたが〔、後に暇を出され、惣兵衛の執成しも叶わず熊本の遠い親類に身を寄せた〔。 その後も、正利は江戸幕府から赦免されることなく約40年にわたって預人のまま続き、延宝4年(1676年)に死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲葉正利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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