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稲葉篤紀 : ウィキペディア日本語版
稲葉篤紀[いなば あつのり]

稲葉 篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日 - )は、愛知県北名古屋市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
愛知県北名古屋市(旧・西春日井郡師勝町)出身。右頬に特徴的な大きな痕があるが、自著によると原因不明とのことである。
少年時代から通っていた隣町の豊山町バッティングセンターで、中学生にとっては速球といえる120km/h前後の球をポンポンと打ち返す同年代の左打者をよく見かけ、「すごいなあ」と感心していた。その打者は現在のイチローである。当時両者の間に会話こそなかったものの、野球界を代表する好打者二人が同じバッティングセンターに通っていたことになる。時を経て2009年のワールド・ベースボール・クラシックではチームメイトとなり、経験豊かなベテランである両者が日本代表をまとめ、優勝に貢献した。
中京高校(現・中京大中京高校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛工大名電高校に5-4で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春()は左翼手としての先発起用も検討されていた〔当時の週刊ベースボール増刊『東京六大学野球特集号』より。〕が、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。
1994年のプロ野球ドラフト会議ヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった〔スポーツナビ、6月30日付。〕、枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」〔10月、日本ハム対中日ドラゴンズ日本シリーズ)のテレビ中継にゲスト解説者として参加した際の野村の発言より。〕。とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」〔後に日本ハムの監督に就任する梨田は1994年当時、近鉄のコーチを務めていた。また、同年の同会議における3位指名のウェーバー順位は、ヤクルトのほうが近鉄より高かった。〕と語っている。〔『FFFFF』(北海道テレビ放送)より。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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