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穂井田忠友 : ウィキペディア日本語版
穂井田忠友[ほいだ ただとも]

穂井田 忠友(ほいだ ただとも、寛政3年1月23日1791年2月25日) - 弘化4年9月19日1847年10月27日))は江戸時代後期の国学者考古学者。通称は久間次郎、のちに靫負また縹助・元次郎・源助と改めた。蓼莪と号する。
==生涯==
備中国下道郡新本村(現・岡山県総社市)出身の小原東作の次男として生まれる。生地は三河国額田郡山中村とも言われるが不明。摂津国にある生玉神社の社司の養子となる。駿府平田篤胤に入門して国学を学び、のちに京都藤林普山について西洋医術を学ぶ。また香川景樹の門に入り、歌人として桂門四天王あるいは桂門十哲に数えられる。禁奥付武家・梶野良材の庇護をうけ、天保2年(1831年)梶野が奈良奉行になると、随従して奈良に移り、天保4年(1833年)より天保7年(1836年)にかけての正倉院宝庫修理の際は、器物・文書の調査を許され、『正倉院文書』正集45巻の整理に従事し、奈良時代の貴重な史料をはじめて世に紹介した。晩年は京都に住み、医術で生計を立てた。伴信友新庄道雄赤尾可官松岡帰厚鈴鹿連胤竹尾正寛羽田野敬雄御巫清直らと交流し、特に奈良時代の考証に詳しいことから「ならや」と呼ばれる。57歳で没する。誓願寺京都市中京区)に墓がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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