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穂坂路 : ウィキペディア日本語版
穂坂路[ほさかみち]
穂坂路(ほさかみち)は、甲斐国信濃国を結ぶ街道のひとつ。別称に川上路佐久往還に先行する道で、名称から甲斐国府(前記国府の所在地は笛吹市春日井町、後期国府の所在地は笛吹市御坂町)と穂坂牧を結ぶ道であると考えられている。
道筋は甲府から北西に進み茅ヶ岳南麓を通過し、小笠原(山梨県北杜市明野地区)から塩川沿いに江草・小尾(北杜市須玉地区)を経て信州峠を越え、信濃国佐久郡川上郷(長野県南佐久郡川上村)へ至る。
古代・中世前期の様相は不明であるが、江戸後期の地誌『甲斐国志』に拠れば甲斐国から他国に通じる九筋の道のひとつに数えられている。戦国期の天文12年(1543年)9月9日には、武田晴信(信玄)の信濃侵攻において武田勢は信濃小県郡国衆大井貞隆を攻めるため千塚(甲府市千塚)まで出陣しており(『高白斎記』天文12年条)、穂坂路を通過したと考えられている。
また、韮崎市中田町中條には武田勝頼の築城した新府城が所在しているが、天正10年(1582年)2月28日には、勝頼は織田信長徳川家康連合軍の武田領侵攻に際して諏訪上原城を退去し新府城に入り、3月3日には新府城を放棄し、甲府城下の一条信龍屋敷(甲府市北新)で休息し、郡内へ向けて勝沼・田野へ進んでいる(『信長公記』)。勝頼はこの際にも穂坂路を通過したと考えられている。
武田氏の滅亡後、同年8月には徳川家康と北条氏直が甲斐・信濃で争う天正壬午の乱が発生し、この際にも利用されたと考えられている(「家忠日記」)。
宿駅には龍地宿(山梨県甲斐市龍地)があり、龍地からは南西に分岐し、志田村(甲斐市志田)において甲州街道に接続する街道が分岐する。天正7年(1579年)推定武田家朱印状写(「竜地区有文書」)に拠れば、龍地宿に対して諸役免除がなされている。また、武田氏滅亡後の天正10年4月には織田信長が龍地宿に対して禁制を出している。
江戸時代には沿道に位置する湯村温泉が甲府近郊の温泉場として栄えた。
== 参考文献 ==

* 『山梨県歴史の道調査報告書 第1集』山梨県教育委員会、1986年
* 『山梨県立博物館 調査・研究報告2 古代の交易と道』山梨県立博物館2008年




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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