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穏原小学校[おんばらしょうがっこう] 穏原小学校(おんばらしょうがっこう)は、明治時代から終戦直後まで東京・原宿にあった公立小学校である。現在の渋谷区地域においては、4番目に古い歴史を持つ小学校であった〔東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p131〕。 ==概要== 穏原小学校は江戸時代から続く寺子屋教育に端を発する学校であり、1881年(明治14年)、東京府南豊島郡穏田・原宿両村の連合小学校として原宿70番地(当時)に開校した〔。当初の児童数は24名で〔、近隣の妙円寺などの寺子屋の生徒も収容された〔。その後、穏原小学校〔穏原尋常小学校〕と改名されたが、「穏原(おんばら)」の名は、穏田と原宿から一字ずつとったもので、穏田一丁目(当時)に邸宅を構えていた明治の元勲、後の陸軍大将・大山厳による命名である〔散策マップ No.3 『JR原宿駅から妙円寺まで』 渋谷歴史散歩の会 2002年(平成14年)4月発行〕。 住宅化の進行と児童数の増加に伴って1889年(明治22年)には現在の妙円寺の地に校舎を新築した〔現住所は、東京都渋谷区神宮前 3-8-9〕〔穏原小学校旧跡 渋谷区神宮前三丁目10番 渋谷区教育委員会解説〕。その後も児童数は増加し、1900年(明治33年)には原宿170番地(当時)に移転、さらに最終的な所在地となった現在の渋谷区神宮前4丁目(現在の原宿中学校跡地=ケアコミュニティ原宿の丘)に移った〔。この間、1923年(大正12年)には、後に神宮前小学校となる分教場、千駄ヶ谷町立穏原尋常小学校分教場が開設されている〔創立年月日一覧表(小学校) 東京都教育委員会、2011年(平成23年)5月7日 閲覧〕〔分教場の設置を1922年(大正11年)としている資料もある〕。1941年(昭和16年)には、国民学校令の発布に伴い、原宿国民学校に代わった。 このように目覚しい発展を遂げた学校であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の戦局の悪化に伴って1944年(昭和19年)より疎開、1945年(昭和20年)5月のアメリカ軍による東京大空襲により原宿の校舎の全てを焼失した〔。学校は敗戦後の1946年(昭和21年)3月、復興されることなくそのまま廃校となり、在校児童は神宮前小学校に移された〔。廃校の背景には、生徒数の激減があったともいわれる〔。 原宿の学校跡地は1960年(昭和35年)から外苑中学校の分教場として使われ、1962年(昭和37年)には独立した中学校、原宿中学校となった。その原宿中学校も1997年(平成9年)をもって廃校となり、敷地・建物は現在、渋谷区の福祉施設「ケアコミュニティ原宿の丘」〔ケアコミュニティ原宿の丘 株式会社渋谷サービス公社〕として使用されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「穏原小学校」の詳細全文を読む
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