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児玉泰[こだま やすし]
児玉 泰(こだま やすし、1935年7月19日 - )は、戦後に中日、近鉄などで活躍した日本の元プロ野球選手。ポジションは投手。1954年から1957年までは空谷 泰(そらたに やすし)。 == 来歴・人物 == 松山商業ではエースピッチャーとして、1953年に第35回全国高等学校野球選手権大会に出場。準決勝までの試合は全試合一人で投げて、すべて完封勝利で決勝進出。決勝は同じ四国の土佐高校と対戦し、試合は9回を終わって2-2で延長戦となり、延長13回表に松山商業が1点を入れ、優勝を決めた。この試合もたった一人で13回を投げきっている。 1954年に中日ドラゴンズへ入団して杉下茂、服部受弘、近藤貞雄らと共に中日初の日本一に貢献した。1958年には45試合に登板し、20勝11敗と素晴らしい記録を残している。1962年に近鉄に移籍してその年限りで引退。本当の姓は児玉だが、松山商業に進学したかったため、空谷家に野球養子として入ったので姓が空谷になった。その後、1958年から姓を児玉に戻している。 中日時代の1957年7月31日の対大洋ホエールズのダブルヘッダー(川崎球場)では第1試合に完投勝利を収め、球場内の風呂に入っていたところ、天知俊一監督が第2試合の先発投手の欄に別の投手の名前を書くつもりが、勘違いからメンバー表に児玉の名を書いて提出してしまった。場内放送でも案内されたために訂正がきかず、急遽風呂から出されてユニフォームに着替え、先頭打者を4球で打ち取ってようやくマウンドを降りることができた。 また、中日時代の1958年10月9日の対広島カープ戦(中日球場)では9回を投げて無安打無得点試合であったが、味方の援護がなく試合が延長にもつれ込み、11回表二死まで無安打を続けたが、11回表二死から拝藤宣雄に初安打を許し、快記録を逃したということもあった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児玉泰」の詳細全文を読む
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