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登り窯(のぼりがま、en:)と現在一般に呼ばれるものは、窯業で陶磁器等を大量に焼成するために、炉内を各間に仕切り、斜面等地形を利用し重力による燃焼ガスの対流を利用して、炉内の各製品を焼成時に一定に高温に保てるよう工夫された窯の形態のことをいう。表面に釉薬を使用する場合は製品の均一という点でこの炉窯が優れている。交通が発達するまでは、消費地に近い、製品の原料となる粘土、燃料、水が豊富な場所が立地〔近藤義郎・藤沢長治編 「日本の考古学」図版〕に選ばれた 。 登り窯はいくつかのタイプの窯の総称として用いられる。1.伝統的な(ガス窯や電気窯、先端産業のセラミック焼成用のローラーハースキルン等に対して)連房式登窯を象徴的に指す言葉として用いる場合(狭義の登り窯)と、2.一般的に丘陵などの斜面を掘り窪めたり、くりぬいたりして高火度で須恵器や陶器を焼成する窖窯(あながま)〔「窖窯」は、考古学で用いられる表記であり、陶芸用語としては「穴窯」の表記が用いられる傾向が強い。〕、3.中国で斜面を利用して陶磁器を焼成した龍窯(りゅうよう)を含めた窯一般をさす場合(広義の登り窯)とがある。 # 狭義の登り窯、近世の陶磁器を焼成する連房式登窯→連房式登窯 # 窖窯(あながま)斜面を利用した地下式ないし半地下式の須恵器や陶器を焼成する窯→窖窯〔須恵器を焼く窯を特に須恵器窯といい、分焔柱がないのが特徴であった。〕 # 中国で斜面を利用して陶磁器を焼成した単室の窯→龍窯(=ドラゴン窯) ==歴史== 日本では、古墳時代初頭までは野焼きのように土器焼成坑、土師器焼成坑などの施設で酸化焔焼成〔縄文土器、弥生土器、土師器は酸化焔焼成によってつくられた。焼成の際に酸素が入り込むため、できあがった土器は赤みをおびる。また焼成温度が比較的低いため、軟質である。還元焔焼成の移入により日常の道具はそれに替わったが、中世には手づくねの酸化焔焼成の土器「かわらけ」が祭祀用として独特の地位を得ていた。〕によって土器が焼かれていたが、古墳時代中期〔従来5世紀とされていたが、京都府宇治市宇治市街遺跡から発見された須恵器が、共に出土した板材の伐採年が年輪年代法で389年と推定されたことから、須恵器の生産も4世紀後半にさかのぼる可能性が出てきたと同市教委が発表した(2006年3月22日20時29分閲覧の読売新聞ネット記事および同紙2006年3月23日朝刊社会面)。窖窯は、単室で分焔柱をもつものと持たないものがあるが須恵器を焼成するものは持っていない。後に陶器を焼く窯で分焔柱を設けるようになった。〕より朝鮮半島より須恵器が伝来したことに伴ってその生産方法である登り窯〔「登り窯」といえば、窖窯から連房式登窯までを指す広義の概念であって、朝鮮半島から伝来した「あな窯」、「窖窯」も「登り窯」ないし「のぼり窯」が伝来したとみなしているが、「登窯」と書いた場合は、連房式登窯を指す考古学上の編年用語になってしまうので混同しないよう注意を要する。〕(窖窯)による還元焔焼成〔還元焔焼成とは、窯をトンネル状などにして、焼成の際、酸素が入り込まないようにした焼成方法。釉薬を用いない素焼き土器の場合は青みないしは灰色を帯び、また、高温で焼成できるため硬質の土器や陶器ができあがる。〕、ならびに轆轤使用も伝わった。16世紀には、熱効率と大量生産に向いた大窯が出現し、まもなく江戸時代になると、かまぼこ状の焼成室を階段状に連ねて仕上がりのばらつきを防ぐとともに大量生産を可能にしたいっそう熱効率が改良された連房式登窯が出現する。近代まで窯の主流を占めていたが、急速に減少しつつある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「登り窯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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