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クボタ・ガーデン(窪田ガーデン、)は、アメリカ合衆国ワシントン州シアトル市のレーニア・ビーチにある日本庭園。1927年に日本人移民(日系一世)のクボタ・フジタロウによって造営が開始され、以後改修が重ねられたもので、面積は20エーカー(81,000 m²)。現在はシアトル市が所有する公共公園であり、シアトル市公園局とクボタ・ガーデン財団()によって運営されている。 == 沿革 == クボタ・ガーデンを造営したクボタ・フジタロウは、1907年に高知県高岡郡〔ノースウエストの庭園めぐり シアトルとその近郊 - jungle city.com〕から移民した人物で、庭師として働きながら独学で造園術を修め〔A Short History of the Kubota Garden - Kubota Garden〕、1923年にクボタ・ガーデニング・カンパニー()を設立した。アメリカ北西部の自然美と日本庭園の技法の調和を目指したクボタの作品には、シアトル大学庭園や、ベインブリッジアイランドのブローデル・リザーブ日本庭園がある〔。 クボタは1927年、レーニア・ビーチに5エーカー(20,000 m²)の沼沢地を購入し、庭園の造営をはじめた。この土地はクボタの自宅であり、クボタ・ガーデニング・カンパニーの事務所兼展示場であるとともに、造園に用いる樹木の育成場でもあった〔。クボタの事業は順調であり、その後も土地を買い増した結果、面積は20エーカー(81,000 m²)に達した〔。また、この庭園はシアトル在住日本人・日系人コミュニティの社会的・文化的な活動のセンターとしての役割を果たした〔。 しかし、第二次世界大戦中、日系人の強制収容によりクボタとその一家はアイダホ州のミニドカ収容所に収容され、4年のあいだ庭園は荒れるに任された。クボタは抑留先でも石庭を含むコミュニティパークをつくった。戦後に収容所から解放されたクボタは、息子のタク()とトム()とともに造園事業を再開するとともに、この庭園を再興した。1960年代には400トン以上の石が運び込まれ、築山や滝が設けられた〔。1972年、当地での日本庭園の紹介と造営につとめたことにより、日本政府はクボタに勲五等瑞宝章を授与している〔。クボタ・フジタロウは1973年に94歳で没するまで庭園の手入れを続けた〔。 その後、この土地はコンドミニアムの開発にさらされた。これを危惧した地元の人々がシアトル市当局に保存のための措置をとることを働きかけ、1981年に市のランドマーク保存委員会()は、庭園の核心部分4.5エーカー(18,000 m²)をシアトル市史跡()に指定した〔。1987年、多くの出資者の助力を受けて、シアトル市はクボタ家から土地を取得した〔。その後さらに、シアトル市の緑地計画()により、庭園内を流れる小川 の保護を目的として、庭園周辺の17エーカー(69,000 m²)の土地がシアトル市によって購入されている。 トム・クボタ回遊庭園()は1999年に造営され、2000年に公開された。2004年にはジェラード・ツタカワの設計によって新しい門が建設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クボタ・ガーデン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kubota Garden 」があります。 スポンサード リンク
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