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竇融[とう ゆう]
竇 融(とう ゆう、紀元前15年 - 62年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。字は周公。司隷右扶風平陵県(陝西省咸陽市)の人。河西〔中国の北西部で、黄河が内陸を北東に流れる領域において、その西部。〕に割拠した新末後漢初の群雄の1人で、後に後漢草創期の功臣となった人物である。後、光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。 弟は竇友。子は竇穆(内黄公主の夫、内黄公主が誰の娘であるかは不明)。甥に対匈奴戦で活躍した竇固(光武帝の娘である涅陽公主の夫)、孫に竇勲(東海恭王彊の娘である沘陽公主の夫)など。従弟は竇士。孝文皇后の弟で章武侯に封じられた竇廣国の7世の子孫。また、曾孫に竇憲・竇皇后、玄孫に竇武がいる。 == 事跡 ==
=== 新での事跡 ===
竇融は年少の頃に父を亡くし、間もなく新の軍において経歴を重ねていく。居摂年間に、竇融は強弩将軍司馬に任命され、翟義の討伐に従軍し、さらに槐里(右扶風)を攻略した。この軍功により、竇融は建武男に封じられている。竇融の妹は大司空王邑の側室であったため、竇融は長安城内で貴人・外戚の出入りする邸宅に住むことができた。この時竇融は、在野の豪傑と交流し、任侠により名を知られ、また、母と兄、幼い弟を養っている。 地皇年間に、太師王匡が赤眉軍の討伐に向かうと、竇融も王匡の要請に応じて、これに従軍した。地皇4年(23年)、王邑の軍に移り、昆陽(頴川郡)で劉秀(後の光武帝)率いる漢軍と戦ったが、敗北して王邑と共に長安へ退却している。更始帝配下の漢軍が武関を破って関中へ進攻してくると、竇融は王邑の推薦により、王莽から波水将軍に任命され、黄金一千斤を賜り、新豊(京兆尹)に駐屯したが、更始帝丞相司直李松配下の韓臣に遭い敗走した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竇融」の詳細全文を読む
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