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立原氏 : ウィキペディア日本語版
立原氏[たちはらし]
立原氏(たちはらし)は、日本の武家の氏族。
== 桓武平氏鹿島氏流 立原氏 ==
常陸国鹿島郡立原邑に立原氏がある。代々、立原城主。本姓桓武平氏家系常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする。代々、常陸守護職 佐竹氏の家臣或いは常陸守護代江戸氏の家臣となる〔常陸大宮市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸大宮市、1982年)277頁、大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林1993年)182頁参照。〕。
戦国期の佐竹氏では、藤原氏の流れを汲む関東管領 上杉氏から常陸源氏の流れを汲む佐竹氏に義人が婿養子したことで、上杉の養子を迎えた佐竹宗家と源氏の家系にこだわる有力一門 山入氏との間で百年に渡る内紛が起きていたが、文明10年(1478年1月、義人の孫で宗家を継いだ佐竹義治は、対山入方の備えとして次男 義武を久米城に入れたとされ、さらに義武を補佐する四殿衆として石沢河内介瀬尾大膳内藤掃部らと並んで立原筑後らが同城に配されたという。しかし、1月28日未明、山入方の大将 山入義知が子 義房と弟 四郎次郎義顕を先陣として国安城を出て、義知自身も下野国の国人領主 那須資持勢200を味方として出陣してきた際、山入方の大将 義知、その嫡男 義房こそ討ち取ったものの、宗家方も佐竹義武をはじめ小田野中務大輔義安が討ち死にし、四殿衆も立原筑後、瀬尾大膳が討ち取られるなど敗北を喫したと記録されている〔佐竹義治勢は、山入勢に備えて、金砂村上利員の利員城に義治四男 義信山方城に五男雅信を配置し、元八田浪人で新規召し抱えの江幡備中鈴木土佐倉田兵庫らをその他に警護として配置していた。大内政之介前掲『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)152頁、153頁参照。〕。
しかし、その後も立原氏の家系は断絶することはなく、佐竹宗家の佐竹家中の衆に立原雅禾介〔大内政之介著『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林、1991年)107頁参照。〕、岩城・菊田郡衆として、千葉之衆、立原大蔵介の名が見える他〔大内政之介前掲『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林、1991年)107頁参照。〕、佐竹東家 安島吉兵衛信次系図には、立原惣左衛門の女が、安島吉兵衛信忠に嫁ぎ、嫡男 安島伝次信詮を生むと記録されている〔秋田県公文書館茨城県立歴史館蔵安島吉兵衛・主税筆『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』〕。また、子孫には佐竹氏の秋田転封に動向し秋田藩士となった者、佐竹氏重臣 小野岡氏の家臣となった者、常陸国に留まり水戸藩士となったものがいる。
また、江戸氏の家臣としては、『江戸氏旧臣録』に小幡村に185貫を領する立原内記及び130貫を領する立原大学の名が見える〔大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)204頁参照。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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