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立松和平 : ウィキペディア日本語版
立松和平[たてまつ わへい]

立松 和平(たてまつ わへい、1947年12月15日 - 2010年2月8日)は日本の小説家である。日本ペンクラブ会員。本名:横松 和夫(よこまつ ・かずお)。筆名は本名の「横松」のもじりで「立松」にした。
== 来歴 ==
栃木県宇都宮市生まれ。栃木県立宇都宮高等学校卒業後、早稲田大学政治経済学部へ進学。
1966年大学入学時は学生運動で騒然としていた。早稲田キャンパス新聞会に入会するが政治的対立のため、除名。文章表現研究会に入会し、現代文学に親しむ。また日本各地や沖縄、韓国、東南アジアなどを流浪する。また、大学にもどるとデモに参加していた。
那覇のナイトクラブでバイトした経験を処女作「途方にくれて」として執筆し、雑誌『早稲田文学』に投稿。当時、「早稲田文学」の編集長だった有馬頼義が主宰する若手作家のサロン「石の会」に参加し三浦哲郎高井有一後藤明生色川武大らと知り合う。
1970年集英社の内定を得ていたが『早稲田文学』に「途方にくれて」が掲載されたため就職せず留年。「自転車」で第1回早稲田文学新人賞を受賞する。翌1971年結婚。妻は『早稲田文学』編集部に勤務していて和平と知り合った。流浪の生活が2年間続く。土木作業員、運転手、魚市場の荷役、病院の看護助手など職を転々。この頃、伝説的な新宿喫茶店風月堂」で中上健次と出会う。
1972年には妊娠した妻を実家に帰し、3ヶ月のインド旅行に出かける。同年、テレビ・ディレクターだった田原総一朗1969年に企画した山下洋輔がバリケードの中でピアノを演奏したイベントを「今も時だ」として小説化。新潮新人賞候補となり、商業誌デビュー
1973年、経済的理由から帰郷し宇都宮市役所に就職。栃木を題材にした小説を書き続ける。1979年退職し、文筆活動に専念。同年に発表した「閉じる家」「村雨」2度、芥川賞候補となる。1980年、『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞。1981年にはATGにより『遠雷』が映画化される。
1984年、宇都宮の家にある本を全部売り払い東京に移住。取材でレバノンを訪れる。福島泰樹に薦められて、ボクシングを始める。ボクシング体験は著書『ボクシングは人生の御飯です』にまとめている。また映画『蜜月』(1984年)では脚本を担当。
1985年には、香港-北京ラリーにナビゲーターとして参加。『地上の翼 香港-北京ラリー優勝記』に執筆。1989年12月1990年1月には写真家小川義文がチーム監督をつとめたチームによる、パリ・ダカールラリーに1号車ナビゲーターとして出場。『パリ・ダカ 砂の水平線』に執筆。
1986年からテレビ番組ニュースステーション』のコーナー「こころと感動の旅」に出演し、その独特のトークで注目される。その旅の内容は『雲を友として こころと感動の旅』にまとめている。1993年の『光の雨』で「盗作事件」を起こし、社会問題となる。事件以後、テレビ出演等が急減した。
1997年、『毒 - 風聞・田中正造』で毎日出版文化賞受賞。
2002年3月歌舞伎座上演『道元の月』の台本を手がけ第31回大谷竹次郎賞受賞。2007年、『道元禅師』で第35回泉鏡花文学賞受賞。
行動派作家として知られ自然環境保護問題にも積極的に取り組み、徳島県川の学校の講師を務めたこともある。小説のほか紀行文、絵本、戯曲、など純文学作家としては異例なほど著書が多い。また近年は仏教への関心を深めており(インドへの関心は若い頃からのもの)、その方面のエッセイ類も多数ある。
2010年2月8日東京都内の病院にて多臓器不全で死去〔〔作家、立松和平氏が死去 「遠雷」「毒-風聞・田中正造」など 産経新聞2010年2月9日〕。1月には体調を崩して入院していた。大法輪連載中だった『良寛』と、書き下ろしの小説『白い河 風聞・田中正造』が未完の絶筆となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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