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立花隆 : ウィキペディア日本語版
立花隆[たちばな たかし]

立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年5月28日 - )は、日本ジャーナリストノンフィクション作家評論家
== 来歴 ==

* 1940年 長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。
* 1942年(昭和17年) 父が文部省職員として北京師範学校副校長となったため、一家で中華民国へ渡る。
* 1946年引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。
* 茨城師範学校(茨城大学)付属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している〔『ぼくはこんな本を読んできた』〕。また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、三人とも陸上競技選手だった。
* 1959年(昭和34年) 東京大学文科二類へ入学。在学中は小説を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文フランス哲学者メーヌ・ド・ビラン
* 1964年 文藝春秋に入社。「週刊文春」に配属される。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受けるが、もっともやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから2年後に文藝春秋を退職。
* 1967年(昭和42年) 東京大学文学部哲学科に学士入学。翌68年に東大紛争が勃発し休校となる。休校中に文春時代の仲間の誘いで文筆活動に入りルポライターとして活動を開始する。創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」、「宇宙船地球号」、「石油」などをテーマとしてノンフィクションや評論を書く。
* 1968年 「立花隆」のペンネームで文藝春秋増刊号「素手でのし上がった男たち」を発表。『諸君!』の初代編集長田中健五(後の文藝春秋編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。
* 1969年 「文藝春秋」や「週刊文春」に「60年安保英雄の栄光と悲惨」、「東大ゲバルト壁語録」、「この果てしなき断絶」、「実像・山本義隆秋田明大」などを発表〔「立花隆のすべて (下)」文春文庫〕。
* 1970年 東大紛争中の学費支払いを巡り大学事務と衝突。東大哲学科を中退。新宿でバー『ガルガンチュア立花』を経営し自らバーテンも務める。(中東訪問のため閉店)
* 1972年 講談社川鍋孝文(のちの週刊現代編集長)の紹介でイスラエル政府の招待をうけ2週間イスラエルに滞在。招待期間終了後は自費で中東各地、地中海・エーゲ海を中心としたヨーロッパ諸国を放浪する。放浪期間中に偶然テルアビブ事件が発生。東大紛争以後中断していたジャーナリスト活動を現地で再開した。
* 1974年(昭和49年) 『文藝春秋』に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表。田中金脈問題として大きな反響を呼び、田中角栄首相退陣のきっかけを作ったとされる。文藝春秋は角栄批判から手を引くが(その為単行本は講談社で出された)、その後も発表場所を変え、折に触れてを田中の問題を取り上げ、ロッキード事件で田中が逮捕された後は東京地裁での同事件の公判を欠かさず傍聴し、一審判決まで『朝日ジャーナル』誌に傍聴記を連載した。また同誌上で「ロッキード裁判批判を斬る」を連載し、俵孝太郎渡部昇一ら田中角栄擁護論者を「イカサマ論法にして無知」と非難した。なお渡部は後年には、立花のことを高く評価するコラムを雑誌に発表している。また「田中角栄研究〜その金脈と人脈」では、ロッキード事件の「丸紅ルート」、「全日空ルート(これを立花はロッキード事件から独立した「全日空疑獄」であると論じている)」についても詳細な取材、記述を行っている。朝日ジャーナルでの担当者は筑紫哲也。以後、筑紫の番組に出演するなど公私ともに親交を持つ。
* 1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載。これに対して党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。また、「総合商社」、「農協」、「中核革マル」、脳死問題など巨大な権力、組織の究明を行う。
: 『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。平凡社アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」、などのテーマを手がける。また、NHKTBSなどにおいてドキュメンタリー番組制作にも携わり、連動した臨死体験などの著作もある。これらにより、1983年菊池寛賞1998年司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。
*1984年「田中角栄と私の9年間」で第45回文藝春秋読者賞受賞。
* 1995年アニメ映画「耳をすませば」で主人公の父親役を演じた。東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。
* 1996年 - 1998年 東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。ゼミは2005年に再開され、現在も続いている。
* この時期にも、『画家香月泰男』関連など様々な形でNHKなど放送メディアに出演した。
* 2002年 12月25日に大きな大腸ポリープS字結腸に発見され切除するが、癌化を疑い自らを被写体として健康状態の患者からポリープが発見され切除、がんかどうかの病理検査、診断、告知までのドキュメンタリー番組の制作をNHKに提案。NHK側も同意して撮影開始。このとき、約束をしながら果たしていない約束が7つほどあることが判明。簡単には死ねないと感じる。いちばんの大仕事は1998年から連載していた『わたしの東大論』を本にする仕事であった。1999年頃には長年連れそった前妻が末期がんに侵され、彼女の依願で病院に同行を繰り返したりするが、1年間の闘病の末2000年に死去。この頃よりがんへの関心を深める。
* 2005年 東京大学大学院総合文化研究科特任教授に就任。
* 2007年 東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学大学院特任教授に就任。同年12月に膀胱癌の手術を受け、『文藝春秋』(2008年4月号)に手記「僕はがんを手術した」を発表。
* 2009年11月27日鳩山由紀夫内閣事業仕分けで大型研究プロジェクトに交付される特別教育研究経費が予算要求の縮減と判定されたのを受けて全国各地の国立研究所長らと共に東京大学で記者会見を開き、「民主党は日本をつぶす気か」と仕分け結果を非難した。「資源小国の日本は科学技術による付加価値で生きていくしかない」と指摘した上で、「目の前で起きている出来事を見て怒りに震えている」と話した。作業風景の印象について「訳のわからない人たちが訳のわからないことを論じている」と評し、仕分け人を「バーバリアン(野蛮人)」と形容した〔リアルスポーツ(2009年11月28日)〕。ドキュメンタリー番組『旧友再会」(NHK)に梅宮辰夫と出演し、かつての住まい茨城県水戸市を訪問。
*2014年 『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』で第68回毎日出版文化賞書評賞受賞。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「立花隆」の詳細全文を読む



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