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浅間山古墳(せんげんやまこふん)は〔浅間山古墳の名称としては、萩原(2007)、大塚(2009)、白井(2009)らが使用する浅間山古墳、白石(2009)、田中(2009)らが用いる竜角寺浅間山古墳、2002年の発掘調査報告書の題名となっている印旛郡栄町浅間山古墳、そして1979年から1981年にかけて、千葉県教育庁文化課によって龍角寺古墳群の墳丘の測量調査が行われた後、龍角寺古墳群に所属する全ての古墳に番号を振った際に付けられた龍角寺古墳群111号墳という名が確認できる。ここでは最も使用頻度が高い浅間山古墳を記事名とする。〕、千葉県印旛郡栄町龍角寺にある龍角寺古墳群〔研究書では竜角寺古墳群と書かれることが多い。ここでは2009年2月12日、国の史跡に追加指定された際の古墳群の名称を採用し、龍角寺古墳群とする。〕に属する、7世紀前半に築造されたと考えられる前方後円墳である。 == 古墳の概要 == 浅間山古墳が所属する龍角寺古墳群は、古墳時代後期の6世紀第二四半期に古墳の造営が始まった。古墳群は現在までに114基の古墳の存在が確認されているが〔ちばの教育 国史跡の追加指定及び名称変更について 〕、浅間山古墳は古墳群内最大の前方後円墳で、墳丘長は78メートルとされている〔萩原(2007)pp.127-129〕。 浅間山古墳には複室構造の横穴式石室があり、石室は筑波山付近から運ばれた片岩の板石を用いて築造されており、石室内からは金銅製冠飾、銀製冠、金銅製の馬具や挂甲などが出土した〔白井(2009)pp.17-21、大塚(2009)p.33-37〕。 墳丘からは埴輪は検出されておらず、前方後円墳最末期の古墳であることは間違いないとされるが、石室の構造や出土品から浅間山古墳の造営を7世紀第二四半期という新しい時期を想定する研究者もあり〔田中(2009)pp.87-89〕、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている前方後円墳の終焉時期との関係で論議を呼んでいる古墳である〔白石(2009)p.365、田中(2009)p.82、pp.87-89〕。 龍角寺古墳群を造営した首長は印波国造と考えられており、浅間山古墳の造営以前は、同じ印旛沼北東部にある公津原古墳群を造営した首長の勢力が龍角寺古墳群を造営した首長を上回っていたと考えられるが、6世紀末以降、勢力を強めた龍角寺古墳群を造営した首長は、周辺地域では最も大きい前方後円墳の浅間山古墳を造営し、その後、日本最大級の方墳である岩屋古墳を造営し、更には7世紀後半には龍角寺を創建したと考えられている〔栗田(2005)pp.158-162、山路(2009)pp.93-96、大川原(2009)pp.315-317〕。 浅間山古墳を含む龍角寺古墳群は、古墳時代後期から龍角寺の創建に代表される飛鳥時代にかけての地方首長のあり方を知ることができる重要な遺跡と評価されている。古墳群のうち、岩屋古墳は1941年に単独で国の史跡に指定されていたが、2009年2月12日付けで、浅間山古墳を含む周辺の古墳群が追加指定され、史跡指定名称は「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められた。また、浅間山古墳の出土品は2009年3月4日、千葉県の有形文化財に指定された〔平成20年度新たに指定する文化財について 千葉県教育庁教育振興部文化財課 PDFファイル 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅間山古墳 (栄町)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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