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李宸妃[しんひ りし] 宸妃李氏(しんひ りし、987年 - 1032年4月14日)は、北宋の第3代皇帝真宗の側室。仁宗の実母で、章懿皇后(しょういこうごう)の諡号が贈られた。 == 経歴 == 杭州の出身。庶民の李仁徳と妻の董氏の娘。最初、尼僧となった。後、後宮に入って美人劉氏(のちの章献皇后)の侍女となった。寡黙にして荘重な性格だったという。真宗と関係して趙禎(のちの仁宗)を産んだが、真宗の許可で子は奪われて劉氏の子とされた。他の后妃が産んだ5人の男子はみな早世していたため、その太子を生んだ「功績」により、劉氏は皇后に昇進した。李氏は身分低い妃嬪にして崇陽県君〔宋代の制度では、4妃(正一品)、18嬪(上嬪従一品、下嬪正二品)、世婦(婕妤、美人、才人。正三品~正五品)、国夫人、郡君(郡夫人)、県君(夫人)、側女ら(紅霞帔など)〕に封ぜられた。その後公主を産んで、大中祥符9年2月に才人となり、天禧2年9月に婉儀(従一品嬪)にいたった。 真宗が崩ずると、順容(従一品嬪)に進封され、園陵の奉仕にあたった。明道元年(1032年)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく2月26日(1032年4月14日)に死去した。翌年、皇太后劉氏も崩じると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、深く哀悼した。李宸妃は皇太后として追尊され、荘懿と諡された。慶暦4年11月、夫の諡を重ねて「章懿」と改諡された。 その後、仁宗は実母を哀れに思い、自身の長女の福康公主(荘孝帝姫)を李宸妃の甥の李瑋に降嫁させた。しかし夫婦仲が悪く、結局離婚した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李宸妃」の詳細全文を読む
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