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童夢-零(ドウム・ゼロ)は、日本の自動車会社童夢が試作したミッドシップスポーツカーである。1978年の第48回ジュネーヴ・モーターショーで初公開された。本項では追加試作型の童夢P-2についても説明する。 == 概要 == === 開発の経緯 === 1960年代に京都府でレーシングカー・コンストラクター「マクランサ」を営んでいた林みのるがスポーツカー製造計画を立ち上げ、1975年に林の自宅で開発プロジェクトがスタートした。林の従兄弟である林将一が経営するハヤシレーシングのホイール商品がヒットしたことから、プロジェクトの準備資金が投資された〔『昭和40年男 Vol.22』、29頁。〕。 当時のレース界は海外製マシンの寡占により国産コンストラクターの多くが挫折し始めていた時期だったため、日本のレース界を代表するメンバーが参加した。ボディデザインは林みのると由良拓也(ムーンクラフト代表)、モノコックは三村建治(現エムアイエムデザイン代表)、サスペンションは小野昌朗(現東京アールアンドデー代表)が設計を担当した(三村と小野はマキやコジマのF1プロジェクトを経て合流)。 1976年ごろからスタイリングの研究が始められたが、このころから作業の中心は大阪府のハヤシレーシングの工場に移った。集まったスタッフは大阪の工場街にアパートを借りるも、家に帰るのは風呂に入りに帰る時のみというようなハードスケジュールで開発を進め、開発を開始した当初は4人いた既婚者全員が妻に逃げられたという。ボディの加工作業では、FRP特有の臭いをガス漏れと勘違いされ、近隣が一騒動になった〔『昭和40年男 2013年12月号』、30頁。〕。 製作開始から1年3ヶ月ほどをかけ、1978年初頭に試作車(プロトタイプ)童夢ー零が完成し、林みのるが代表を務める童夢が設立された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「童夢-零」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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