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『竹と樹のマンガ文化論』は、竹宮惠子と内田樹との対談集。 2014年12月1日、小学館より小学館新書として刊行された。同年12月19日、同じ版元から電子書籍版が配信開始された〔竹と樹のマンガ文化論 | 小学館 〕。 対談は竹宮が学長をつとめる京都精華大学と内田の自宅「凱風館」で2日にわたって行われた。 == 内容の一部 == ;第一章 急激な「発展力」の秘密 :二人が2008年4月初旬に初めて会ったときのことが語られているが、その模様はブログ「内田樹の研究室」にも記されている〔京都で養老先生と暴走 (内田樹の研究室 2008年4月2日) 〕。 :内田は言う。「手塚治虫の功績は数え上げると切りがありませんけれど、あまり指摘する人がいない功績は一七、八歳でプロになれるということを身を以て証明したことです。手塚がマンガ家のキャリア形成について一種のスタンダードを作った」〔本書、19頁。〕 :竹宮は物流網の発達が日本のマンガの隆盛に寄与したことを指摘する。「日本のすごさは、鉄道などの物流網が発達していることです。日本全国、ほぼ同じ日に同じ値段の本がちゃんと届く。(中略) 物流が保証されるからこそ、日本全国津々浦々まで、マンガ雑誌の発売日が設定できるのです」「日本が満州(中国東北部)に進出する時も、まず鉄道の実験を握ることから始めている。物流が鍵だということに、統治者は早くから気づいていたんです」〔本書、25-26頁。〕 ;第二章 発明を上書きする「集合知の力」 :二人の間で「マンガ家は技術についてはコピーライトを主張しない」ということが論じられる。竹宮は次のように述べる。 :「要するに、日本のマンガは、始めから『オープンソース』だった、ということです。描き手の発明は、誰が使ってもいい許容のなかで成長し続けてきました」「これはいいな、と思ったらみんなで真似をするのです」〔本書、38頁。〕 ;第三章 読者をわしづかみにする「作品力」 :「内田先生は、『赤毛のアン』派ですか? 私はケストナーの『飛ぶ教室』が好きでした」と言う竹宮に、内田は「ふふ、僕はもちろん『飛ぶ教室』派ですよ」と答えている。なお竹宮の弁によれば、萩尾望都は『赤毛のアン』派だったという。 :1972、73年頃、竹宮、竹宮の友人の増山法恵、萩尾望都、山岸凉子の4人が45日間のヨーロッパ一周旅行をしたことが語られている。当時山岸凉子は萩尾望都と友達になりたくて「大泉サロン」によく来ていたのだという〔本書、96頁。〕。 :「大泉サロン」のメンバーで一緒に見た映画の例として、リンゼイ・アンダーソン監督のイギリス映画『If もしも....』(1968年12月本国公開、1969年8月日本公開)が挙げられている〔本書、84頁。〕。 ;第五章 複雑で深い描写のための「表現力」 :1970年代前半頃を回顧して竹宮は次のように述べている。 :「さまざまな要求に応えるという意味では、手塚先生や石ノ森先生の時代のような、単純明快さだけでは読者は満足しなくなった。もっと複雑な物語を。もっと深い描写を。という欲求から、映画に対抗できるようなマンガを作るのが当たり前になっていった。どんどん複雑化していったきっかけは、たぶん萩尾望都さんだったと思いますよ。絶対に、私じゃない(笑)」〔本書、164頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹と樹のマンガ文化論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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