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竹中武 : ウィキペディア日本語版
竹中武[たけなか たけし]

竹中 武(たけなか たけし、1943年8月6日 - 2008年3月15日)は、日本ヤクザである。二代目竹中組組長。
==来歴==
兵庫県飾磨郡御国野村字深志野(後の姫路市深志野町)で生まれた。父は長谷川龍次。母は竹中愛子。長谷川龍次は御国野村村議会議員で、竹中家に養子に入った。兄に、竹中正久(後の四代目山口組組長)、竹中英男竹中正(後に姫路市竹中組相談役)がいた。竹中家には、よく木下会木下亀次会長が訪れていた。
1945年昭和20年)立命館大学学生だった竹中家次男の竹中良男が、危険共産革命主義者として特別高等警察に逮捕され、拷問を受けたとされる。その後、竹中良男は放免されたという。
同年、中国牡丹江の南満州鉄道百貨店に勤務していた長兄・竹中龍馬が現地召集された。
同年6月22日午前11時、B29の9機編隊が姫路市の川西航空機の工場付近を空襲した。
同年6月26日、B29が再度姫路市を空襲した。
同年7月3日深夜、B29が飛来し、姫路市を空襲した。3回の空襲で、姫路市では514人が死亡し、総戸数の40%が消失し、罹災者は55,000人を超えた。竹中の家は、被災を免れた。
1946年(昭和21年)4月、兄の竹中正久が旧制姫路市立鷺城中学校(後の姫路市立姫路高校)に進学した。
同年4月30日、父・竹中龍次が、結核前立腺肥大尿毒症を併発して死亡した。享年52。やがて、竹中の料理店は廃業となった。
同年、長兄・竹中龍馬が復員し、鉄工所に勤務した。
同年9月、兄の竹中正久が他校生と喧嘩になり、旧制姫路市立鷺城中学校を退学した。
1948年(昭和23年)12月、竹中良男が死亡した。
1951年(昭和26年)10月、兄の竹中正久が、知り合いに借金返済を強要して脅迫した。恐喝容疑で逮捕され、神戸市鑑別所に送られた。
1953年(昭和28年)6月、竹中正久が奈良少年院を出所し、姫路市御国町に戻った。母の愛子は、竹中の姉とともに食料品店を始めた。兄の正は、兵庫県立姫路東高等学校に進学したが、1年で中退した。
このころ、竹中正久は、御着の実家を拠点として、竹中英男、竹中正、竹中修、竹中武、坪田英和(後の竹中組初代若頭)、徳平正春中塚昭男平尾光笹井啓三桂勇一西尾健太郎らと愚連隊を形成していった。竹中英男は、明石市の博徒矢嶋清(後の四代目山口組舎弟・矢嶋長次の父)に弟子入りし、熱海市鶴政会(会長は稲川角二)の賭場などに出入りした。竹中正久は、週に1、2回ほど、姫路市総社の旅館「大阪屋」で、手本引きの賭場を開き、竹中英男に胴師を、竹中正や竹中武らに合力(進行係)をさせた。
1957年(昭和32年)4月14日、竹中正久たちの愚連隊は、山口組宇野組の者と明石公園で花見をした帰りに、明石駅前で、喧嘩を起こした。警察10人が駆けつけたとき、竹中正久たちの喧嘩相手は逃げていた。竹中正久たちは、警官に逮捕されそうになり、抵抗して乱闘となった。竹中正久は、公務執行妨害などで逮捕された。このとき、徳平正春は別件で恐喝を働いていた。竹中正久は、徳平の恐喝罪も自分で背負った。竹中正久は、神戸市大久保の神戸刑務所に1年間服役した。
竹中正久の不在の間、竹中正久の愚連隊は、竹中英男の博打による収益だけを頼った。
1958年(昭和33年)、竹中正久は出所し、拠点を姫路市光源寺前町の「KO麻雀」に移した。
1959年(昭和34年)、竹中武は中学校を卒業した。
1959年(昭和35年)、竹中英男が結婚し、御着の竹中家の実家の裏に木造二階建ての新居兼賭場を建てた。このころ、すでに、竹中英男は結核だった。竹中英男は、野球賭博や金融業をやり始めた。
同年、竹中英男に大島組からの盃の話が起こったため、竹中正久は、兄弟分の宇野正三(後の三代目山口組(組長は田岡一雄)若中)に相談した。宇野正三が竹中英男に真意を確かめると、竹中英男は大島組入りを拒否し、「兄の竹中正久を一人前にさせたい」と言った。宇野正三は、父の山口組宇野組宇野加次組長に、竹中正久の山口組入りを頼んだ。宇野加次は、竹中正久を、山口組若頭地道行雄に推薦した。姫路市の湊組湊芳治組長と姫路市の渋谷組渋谷文男組長が、竹中正久の山口組入りに反対した。地道行雄は、博打で竹中英男と顔見知りだった今治市矢嶋組矢嶋長次組長を、竹中正久のもとに送り、竹中正久の反応の確かめた。竹中正久は、山口組入りに拘ってはいなかった。
1961年(昭和36年)、竹中武は、長兄・竹中龍馬から金を借り、山陽電鉄姫路駅裏の南地の3階建ての家を借りて、売春宿「25時」を開いた。その後、竹中英男が、姫路市の三代目山口組湊組の手本引き賭博で大負けした。竹中武が、兄・竹中英男の負け分を支払った。
同年12月13日、竹中正久は神戸市生田区橘通りの山口組事務所において、地道行雄の推薦で、田岡一雄から盃をもらい、直参となった。細田組細田利光組長(後の若頭補佐・細田利明の父)、小野組小野新次組長、中村組中村憲逸組長、前本組前本重作組長らの山口組直参や、湊芳治らの田岡一雄の舎弟が見届け人となった。その後、竹中正久は神戸市三宮の「神戸観光ホテル」で行われた山口組「御事始(事始)」に出席した。
同年、竹中英男の発案で、竹中正久は、竹中正久の舎弟全員を、竹中正久の若衆とした。
1962年(昭和37年)1月16日夜桜銀次事件が勃発した。
同年3月、竹中武の発案で、竹中組の積立金制度が始まった。
同年9月、竹中正久が福岡拘置所から保釈で出た。この間、中山きよみが南地の新地で経営するスタンドバー「いこい」の売り上げだけが、竹中組の収入だった。
同年、姫路市本町の岡田組(組長は岡田守一)事務所2階で、竹中正久は他の竹中組組員と正式に盃を交わした。取持人は岡田守一だった。その後、竹中組組員は50人に増えた。
同年11月、「25時」の女性従業員の愛人(木下会会員)が、「25時」で閉店間際まで飲んでいたため、竹中武の若衆が木下会会員を下駄で殴って追い出した。女性従業員が警察に訴えたため、竹中武は傷害で逮捕され、神戸の鑑別所に送られ、その後保護観察処分となった。竹中正久たちは、「25時」を営業することが困難になったため、竹中組事務所として使うことにした。
同年12月、竹中正久の若衆・森田三郎がノミ行為を失敗し、岡山市の人に対して借金を作った。竹中武が借金の問題を解決するために、岡山市に行った。その後、竹中武は岡山市に定住した〔当初、竹中武は短期間滞在するつもりでいた〕。その後、竹中武は、岡山市に竹中組を設立した。
1963年(昭和38年)、竹中英男は、姫路市の旅館を買い取り、料理旅館としてリニューアルさせた。
1964年(昭和39年)1月 、「暴力取締対策要綱」が策定された。
同年2月警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦」)を開始した。
同月、母の愛子が膵臓癌で死亡した。享年60。愛子の葬式には、田岡一雄の妻・田岡文子が参列した。
同年6月、竹中英男が結核で死亡した。
1965年(昭和40年)、山口組に対する第一次頂上作戦が開始された。
1971年(昭和46年)7月、竹中組組員・瀬古武志が、野球賭博での勝ち金を支払わない白龍会藤沢組若頭・長谷川智一を刺身包丁で刺殺した〔事件の経緯は以下の通り。1971年(昭和46年)、竹中組組員・瀬古武志は、白龍会藤沢組若頭・長谷川智一の野球賭博の客になり、160万円を勝った。瀬古武志は、長谷川智一が留守だったため、藤沢組組長らと交渉して、80万円を受け取った。同年7月、瀬古武志は、姫路市に戻ってきた長谷川智一に、勝ち金の残り80万円を要求したが、長谷川智一は支払いを渋った。瀬古武志は、竹中組事務所近くに長谷川智一を呼び出し、刺身包丁で刺殺した〕。瀬古武志は、竹中組幹部・橘貴智雄の甥で、橘俊二に車を運転させて、長谷川智一の遺体を運び、仁寿山山中に遺体を埋めた。
1972年(昭和47年)3月8日午後10時ごろ、竹中正久は、坪田英和(初代竹中組若頭)、竹中組若頭・長尾米八、橘貴智雄と、姫路市魚町の飲食店ビル2階のクラブで酒を飲んだ。その後、竹中正久は、坪田英和のみを連れて、先に次のクラブに移った。長尾米八と橘貴智雄は遅れてクラブを出て、飲食店ビル前で高松市坂井組元準構成員・津吉隆俊と喧嘩になった。長尾米八は津吉隆俊にナイフを斬られ、橘貴智雄は津吉隆俊にナイフでを刺され、ともに重傷を負った。坪田英和は、次のクラブに来ない長尾米八と橘貴智雄を探しに出かけ、津吉隆俊を追いかけていた橘貴智雄を発見した。坪田英和が、橘貴智雄に代わって、津吉隆俊を追ったが、魚町の小料理屋の前で、津吉隆俊にをナイフで刺された。近くにいた湊組組員たちが集まり、1人が坪田英和をタクシーで病院に運び、他の湊組組員で津吉隆俊を追った。津吉隆俊は、姫路市西塩町のクラブ「オウリョクコウ」逃げ込み立て篭もった。湊組組員1人が竹中組事務所に電話を入れた。岡山市の竹中組組員・貝崎忠美が竹中組事務所で湊組組員からの電話を受け、竹中組若頭補佐・坂本義一(後の竹中組舎弟頭)に事件を報告した。貝崎忠美は、木刀を持って「オウリョクコウ」に行ったが、竹中組事務所に戻り、竹中組事務所1階の台所から菜切り包丁を持ち出して、再び「オウリョクコウ」前に戻った。通報を受けた姫路警察署の警官隊が「オウリョクコウ」に突入し、津吉隆俊の身柄を確保した。貝崎忠美は、警官隊に連行されていた津吉隆俊の左胸を菜切り包丁で突いて、刺殺した。貝崎忠美は、姫路警察署の警官に、殺人及び公務執行妨害の現行犯で逮捕された。その後、貝崎忠美は懲役12年の判決を受けて、服役した。
1974年(昭和49年)竹中武は瀬古武志の長谷川智一殺害を知り、瀬古武志に事実を問い質した。竹中武は瀬古武志とともに仁寿山で長谷川智一の遺体を確認した。
同年6月、兵庫県警と姫路警察署は、瀬古武志を別件で逮捕し、長谷川智一殺害を自供させた。
同年7月、警察は、瀬古武志を殺人と死体遺棄で再逮捕し、仁寿山で長谷川智一の遺体を発見した。
1978年(昭和53年)、長兄・竹中龍馬が死亡した。57歳だった。
1980年(昭和55年)1月10日姫路事件が勃発した。
同年3月上旬と中旬、竹中正久は、矢嶋長次、長谷一雄稲川会林喜一郎副会長、忠政会大森忠明会長、松正会山本真喜夫会長らを招待し、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。
1981年(昭和56年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、田岡一雄の未亡人・田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山口組若頭・山本健一が、副葬儀委員長だった。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山広組山本広組長(後の一和会会長)、小田秀組小田秀臣組長、中西組中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中正久、益田組益田芳夫組長(後の益田佳於)、加茂田組加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、豪友会中山勝正会長(後の四代目山口組若頭)、溝橋組溝橋正夫組長と、田岡文子で行なわれることになった。
同年10月29日、1980年(昭和55年)3月上旬と中旬に開いた賭博により、竹中正久、竹中武、杉本明政、矢嶋長次、長谷一雄、林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らが、兵庫県警に逮捕された。警察は、テラ銭を1億5000万円と推定した。
同年11月18日、竹中正久は常習賭博で起訴され、姫路拘置所に収監された。
1982年(昭和57年)2月4日、大阪市生野区今里病院で、山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。竹中武は、山口組四代目に竹中正久を推すグループに属した。
同年3月13日、竹中正久は姫路拘置所から保釈された。
同年3月15日、竹中正久の確定申告の締切日だった。兵庫県警は、1980年(昭和55年)3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博でのテラ銭1億5000万円などを竹中正久の所得と認定し、大阪国税局に課税するように通報した。
同年3月18日、兵庫県警山口組解体作戦本部、大阪国税局、神戸地方検察庁は、姫路市の竹中組事務所や岡山市の竹中組事務所などを一斉捜索した。
その後、田岡文子は、竹中正久に若頭就任を要請した。竹中正久は断り、竹中正久は中山勝正を若頭に推薦した。他の直系組長が、中山勝正の若頭就任に反対したため、中山勝正の若頭就任は見送られた。再び、田岡文子が、竹中正久に若頭就任を要請し、竹中正久から承諾を取り付けた。しかし、溝橋正夫が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したため、竹中正久は若頭就任を止め、幹部会への出席を拒否した。
同年6月14日、山本広は電話で、竹中正久に若頭就任を説得したが、竹中正久は拒否した。山本広は、田岡文子に相談した。田岡文子は、竹中正久に電話をし、田岡邸で話し合いことを決めた。竹中正久は、二代目細田組・細田利明組長とともに田岡邸に赴き、田岡文子と話し合った。
同日、兵庫県警は、田岡文子を「三代目姐」と認定した。
同年6月15日午前3時、竹中正久は若頭就任を再度承諾した。
同日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が出席し、竹中正久の若頭就任が了承された。
同年8月25日、竹中正久と妻・中山きよみが、所得税法違反容疑で指名手配され、竹中組事務所まで40箇所が捜索された。竹中武は脱税の共謀容疑で逮捕された。
同年8月26日午後3時ごろ、竹中正久は、細田利明に付き添われて神戸地検に出頭し、所得税法違反容疑で逮捕された。
同年9月16日、竹中正久は、1億9439万円を脱税したとして、起訴された。神戸拘置所は、竹中正久に対して、接見禁止とした。
1983年(昭和58年)6月21日、竹中正久が神戸拘置所から保釈された。竹中正久は、中村憲逸、小野新治、名神会石川尚会長、細田利明らとともに、姫路の竹中組事務所に戻った。
同年6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木組佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。
同年6月8日兵庫県警姫路警察署は、竹中事務所への家宅捜索を行なった。容疑は、1982年(昭和57年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、1982年(昭和57年)8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わったというものだった。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
山口組福井組福井英夫組長は、山口組宅見組宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市弘田組弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年6月23日、竹中正久は、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本組岸本才三組長を据えた。竹中正久は、山健組渡辺芳則組長(後の五代目山口組組長)、宅見組宅見勝組長(後の五代目山口組若頭)、嘉陽組嘉陽宗輝組長、一心会桂木正夫会長、角定一家木村茂夫総長を若頭補佐に据えた。竹中正久は、竹中武を竹中組組長に、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。
同年7月10日徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。霊代は、田岡文子
1984年(昭和59年)8月5日山一抗争が勃発した。
1988年(昭和63年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。
1989年平成元年)2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。
同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。四代目山口組若頭渡辺芳則と四代目山口組組長代行・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と山口組本部長・岸本才三岸本組組長)と近松組近松博好組長が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、宅見勝は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見勝は、山口組心腹会尾崎彰春会長に依頼して、岸本才三に、竹中武の連れ戻しを断念させた。渡辺芳則も宅見勝の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。
同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。
同年5月18日、山口組本家で、渡辺芳則は、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組牛尾洋二組長、森唯組森田唯友紀組長は欠席した。
同年5月27日、渡辺芳則は、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。渡辺芳則は、英組・英五郎組長、倉本組倉本広文組長、黒誠会前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。渡辺芳則は、益田啓助を舎弟頭に据えた。渡辺芳則は、章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。二代目吉川組野上哲男組長は、山口組総本部副本部長となった。益田組益田佳於組長、小西一家小西音松総長、伊豆組伊豆健児組長は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った〔通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する〕。
同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。
同年6月25日、竹中武は、中西一男、石田章六、倉本広文、前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。
同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。これを切っ掛けに山竹抗争が勃発した。
同年7月5日、渡辺芳則の山口組守り刀相続の書類が整った。竹中武の使いが、守り刀を、桑田兼吉に届けた。
同年11月5日、山口組本家で、竹中正久の組葬が営まれた。喪主は、中山きよみと発表されたが、中山きよみは列席しなかった。その後、山口組は、香典として3000万円を中山きよみに贈ったが、中山に突き返された。
1990年(平成2年)1月24日、竹中組組員が、山口県柳井市の元一和会幹部宅に侵入し、元幹部の家族から山本広の所在を聞き出そうとした。
2008年(平成20年)3月15日、病死した。享年64。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「竹中武」の詳細全文を読む



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