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北野 うし(きたの うし、1877年(明治10年) - 1962年(昭和37年))は、女義太夫の太夫(語り手)である。ビートたけしら有名人を輩出した北野家の祖である。 == 人物 == 明治10年の丑年の生まれ。女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。 明治後期に娘義太夫を引退し、結婚して北野姓となり息子をもうける。 大正後期、成人した息子は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったと思われる。この時期うしは義太夫の指導をしていたが、名家を訪ねたときに奉公に来ていた機転の良い娘を知り、養女にして息子の妻に迎えようとした。この娘が小宮さき(千葉県市原市出身)である。しかし不幸にも息子が虫垂炎に罹り急死したため、替わりにうしの実の甥で腕の良い漆職人(のちにペンキ職人)菊次郎を婿に迎え北野家を継がせた。 その菊次郎とさきの夫婦には、北野重一(宇野製作所取締役営業本部長)、北野大(明治大学教授)、北野武(お笑い芸人のビートたけし)らが生まれた。うしはたけしら兄弟の父方の大叔母であり、母方の養祖母である。 さきやたけしの著書や発言によれば、菊次郎は仕事の腕が良い反面、酒癖が悪く浪費家で、菊次郎とさきの結婚後の北野家は貧しかったとのことであり、うしも苦労したという。 晩年にかけても家で義太夫の講師を務めたこともあったという。たけしは、自らの芸人の才覚はうしから受け継いだものだと考えているようである。 『菊次郎とさき』・『たけしくん、ハイ!』などの、たけしによる著作物に彼女が登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北野うし」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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