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竹村 健一(たけむら けんいち、1930年(昭和5年)4月7日〔『現代日本人名録2002』3 p343 (2000年1月)〕 - )は、日本のジャーナリスト、政治評論家〔自著では職業の肩書きはないと語っており、名刺にも「竹村健一」とだけ表記している(『この人が忘れられない 私が出会った素晴しき一流人間37人』)〕。1989年第5回「正論」大賞受賞〔正論大賞の歴史 〕〔。 == 来歴 == 大阪府大阪市東成区(現在の生野区)生まれ。旧制大阪府立生野中学校の1年生の時に、父の実家のある和田山町(現在の朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現在の神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカのシラキューズ大学、エール大学、ソルボンヌ大学で学ぶ〔。シラキューズ大学大学院新聞科修了〔。 1955年から英文毎日の記者を経て、1963年に山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる〔。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し〔それから1年後に山陽特殊製鋼は倒産する。〕、以後は追手門学院大学英文科助教授〔、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動をはじめる。並行してテレビ・ラジオにも出演。 1980年(昭和55年)頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。 1982年(昭和57年)9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの〔「竹村健一さん盗用 月刊誌から著書に転載」『中日新聞』1982年9月4日付〕〔「竹村健一センセイ『盗作事件』一部始終」『週刊現代』1982年9月25日号〕〔「今週のことば ビジネス誌からの盗作で謝罪と回収 こうしたトラブルは初めて」『週刊文春』1982年9月16日号〕〔「紳士と淑女 ビジネス雑誌の中身をそっくりいただいて本を書いていたことを謝った」『諸君!』1982年11月号〕。 1985年(昭和60年)より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている〔「NYのマンハッタンで竹村健一の壁画を発見 アデランスCM撮影用の残骸」『噂の眞相』1991年9月号、p.9〕〔〕。アデランスのCM撮影用に描かれたものであるが、絵を消すには1200万円の費用がかかることや、街路樹との位置関係でビルの壁面が広告スペースとしては適さなかったため広告会社が手をつけなかったこと、ビルの所有者も気にいっていること、地元の人たちの評判も良いことなどの理由から、2012年(平成24年)現在もそのままになっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹村健一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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