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笠原 信為(かさはら のぶため、生年不詳 - 弘治3年7月8日(1557年8月12日))は戦国時代の武将。相模の戦国大名北条家の家臣。父は笠原信隆(のぶたか)。子に笠原康勝(やすかつ、笠原政尭の養父)。武蔵国橘樹郡小机城城代。通称は越前守。文化的教養もあり、和歌・漢詩に精通して造詣が深かった。 北条早雲、氏綱、氏康の3代にわたって仕えた宿老で、伊豆21家の筆頭格であり北条氏綱の時代には五家老を務め配下の小机衆を率いて、重用された。(鶴岡八幡宮の戦いの際に)里見義豊によって鶴岡八幡宮が焼き討ちを受けたため、その再建のために造営総奉行を命じられると、同じく奉行の大道寺盛昌・間宮康俊、蒔田御所こと蒔田吉良頼康とともに普請にあたっている。 この再建に携わり、盛昌を烏帽子親として元服した北条氏綱の次男・為昌に「為」の字を与えたのは信為であると思われる。また享禄2年(1529年)、早雲寺殿(北条早雲)の御茶湯料として熊野堂5貫文を雲松院に寄進している。 墓所は雲松院(神奈川県横浜市港北区小机町)。 ==参考文献== *『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年 *盛本昌広「間宮氏由緒の形成」(『六浦文化研究』第十号所収、六浦文化研究所、2001年) *『蒔田の吉良氏』横浜市歴史博物館編集、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団、2014年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笠原信為」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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