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倉敷支配所(くらしきしはいしょ、くらしきしはいじょ)は、江戸時代の日本における領地の一つである。江戸幕府直轄領(天領)のうち、備中国窪屋郡倉敷村(現在の岡山県倉敷市中心部)に置かれた倉敷代官所(くらしきだいかんしょ、くらしきだいかんじょ)〔代官所設置前は陣屋であった。〕に着任した倉敷代官が管轄した領地である。 == 概要 == 江戸時代に徳川幕府領であった倉敷村の地に、周辺の幕府領を統治する目的で代官所を設置。代官を派遣させ、一円の統治を任せた。その代官の統治する範囲を倉敷支配所と呼んだ〔下中直也 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』(1981年)平凡社〕。 倉敷は江戸時代初期は、備中松山に置かれた代官所に派遣された備中代官の統治下にある幕府領で、高梁川中流域にあたる松山に対し、当時の高梁川河口付近にあったことから、物資の中継基地港として重要拠点とされ、内陸の松山と高梁川の水運で結ばれていた〔。 その後、元和元年(1615年)に松山代官所が廃されて大名領に移行し、備中松山藩が成立。倉敷も同藩領地となった。寛永19年(1642年)、再び徳川幕府領に復し、代官米倉平太夫重種の支配下となった。天和3年(1683年)には庭瀬藩領へ移管され、元禄10年(1697年)には丹波亀山藩領、同16年には再々度幕府領、宝永7年には駿河田中藩領、享保6年(1721年)以降は4度幕府領となり、以降は一貫して幕府領として幕末を迎える〔。 なお大名領であったとき、歴代藩主とも幕府中枢に位置する立場であったことが共通し、各藩の領地となっている間も倉敷村は幕府預かり地というような形で事実上の幕府代官支配が存続していたといわれる〔。 延享3年(1746年)、それまで倉敷にあった出張所的な陣屋を廃止し、新たに代官所(倉敷代官所)を設置した〔岡山県大百科事典編集委員会編集『岡山県大百科事典』(1979年)山陽新聞社〕。 天保5年(1834年)6月、当時の倉敷代官・古橋新左衛門は、代官所の隣接地(城山という丘の西)に郷学明倫館が建設される〔〔。 慶応2年(1866年)4月、長州第二奇兵隊を脱走した浪士集団が倉敷代官所を襲撃し、火災が発生した(倉敷浅尾騒動)〔〔。 慶応4年(1868年)の1月、廃藩置県により倉敷支配所が廃止となり、倉敷県へ移管する〔。 倉敷代官の支配圏域は、備中国・備前国・美作国・備後国南部・讃岐国島嶼部〔小豆島や豊島・直島諸島などは、文献等により備前国であったり讃岐国であったりし、その所属国が定かではない。〕までおよび、広域にわたった。そのため、美作国域の幕府領(主に大庭郡)津山藩の預処となり、さらに元禄13年(1700年)5月には備中国小田郡笠岡村の地に出張所(ではりしょ)となる代官所である笠岡代官所を設けて代官を新たに派遣、備中国西部から備後国南部にある幕府領の統治にあたらせた。 幕末まで50人の代官が支配にあたった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倉敷支配所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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