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第1次ソロモン海戦 : ウィキペディア日本語版
第一次ソロモン海戦[だいいちじそろもんかいせん]

第一次ソロモン海戦(だいいちじソロモンかいせん)は、太平洋戦争時の1942年8月8日 - 9日に日本海軍連合国軍(アメリカ海軍イギリス海軍オーストラリア海軍)の間で行われた海戦で、連合軍側の呼称はBattle of Savo Island
なお Battle of Savo Island と混同する、日本軍側で「サボ島沖海戦」と呼称する海戦のことを連合軍側は「Battle of Cape Esperance」と呼び、第一次ソロモン海戦から2ヶ月後に行われている。
== 背景 ==

=== 米海兵隊上陸 ===

日本海軍軍令部はニューカレドニアフィジーサモア方面への進出作戦であるFS作戦をたてたが、1942年(昭和17年)6月に発生したミッドウェー海戦における大敗北により、FS作戦は延期された。トラック諸島防衛と失った空母の航空兵力を補うため、日本軍は井上成美中将(第四艦隊司令官)の進言により、ガダルカナル島にルンガ飛行場を建設し、8月5日に戦闘機30・艦載機30が進出予定、8月15日には1個航空戦隊の収容が可能となるはずだった〔#6戦隊日誌(5)pp.35-36〕。実際、第十三設営隊岡村徳長少佐は7月末に一部滑走路が完成すると報告して日本軍戦闘機の進出を要望している〔#海軍生活放談pp.499,519〕。これは「ソロモン諸島・ニューギニア島東部における航空基地獲得設営のための作戦(SN作戦)」の一環だった〔#海軍生活放談pp.518-519〕。またポートモレスビー攻略を行うレ号作戦リ号作戦を開始しようとしていた〔#6戦隊日誌(5)pp.19、35〕。7月26日、第四艦隊は第八艦隊(旗艦鳥海三川軍一中将)に外南洋方面受持警戒区域の引継ぎを行ったが、井上以下司令部は「アメリカ軍は外南洋の島伝いには来ない」と断言した〔#海軍生活放談p.495〕。ラバウルの第八根拠地隊司令官金沢正夫中将も、第八艦隊に井上と同様の見解を示した〔#海軍生活放談p.496〕。
第四艦隊の思い込みとは対象的に、連合国軍は同方面を重要視、ガダルカナル島に日本軍飛行場が建設されれば、アメリカとオーストラリアの連絡を遮断される恐れがあると判断する。連合国軍の絶対防衛圏の死守・ソロモン諸島を奪還するための足場確保・東部ニューギニアの戦いの間接的支援のため、ミッドウェー海戦後にソロモン諸島とサンタクルーズ諸島の奪還と確保が研究された。7月の上旬にはフランク・J・フレッチャー中将指揮の空母エンタープライズサラトガワスプを基幹とする空母機動部隊、リッチモンド・K・ターナー少将指揮の約19,000名からなる海兵師団と巡洋艦8隻、駆逐艦15隻、掃海艇5隻からなる上陸部隊と支援艦隊がフィジー諸島に集結した。
1942年(昭和17年)8月7日早朝、アメリカ軍海兵隊約3,000名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸のツラギ島に奇襲上陸した。これに対し、ツラギの日本軍守備隊は偵察部隊の飛行艇隊であった横浜海軍航空隊要員を含めて僅か400名にしか過ぎず、奇襲を受けた日本軍守備隊は0420(4時20分、以下時間は数字表記)に敵を「空母1隻、重巡4隻を含む20隻以上の機動部隊を含む上陸部隊」と通報した上で、この海域の警備を担当するために同年7月14日に新設されたばかりの第八艦隊に至急の救援を要請した。さらに0535には「戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦15隻、輸送船多数」を報告した〔#亀井戦記p.99〕。だが兵力差は圧倒的であり、0610に駐留していた横浜空司令からの「敵兵力大、最後の一兵まで守る、武運長久を祈る」との打電を最後に連絡は途絶し、守備隊はその日夕刻に玉砕した。これによりフロリダ諸島の戦いは終わった。ほぼ同時刻にガダルカナルにもアメリカ軍が上陸し、飛行場建設のために駐留していたガダルカナル島の日本軍守備隊は、情況連絡する余裕もなくガダルカナル島内陸部西方に撤退した。宇垣纏連合艦隊参謀長は「アメリカ軍機動部隊を含めた大部隊が接近していたのに、なぜ現地軍は発見できなかった」と著作中で嘆息している〔#戦藻録(九版)p.160〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第一次ソロモン海戦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Savo Island 」があります。



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