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『第2回NHK紅白歌合戦』は、1952年(昭和27年)1月3日にNHK東京放送会館第1スタジオで行われた、第2回目のNHK紅白歌合戦。19時30分~21時にNHKで生放送された。 == 概要 == * 当時の番組風景を撮影した写真が現存する紅白は今回が最古であり(前回は全く現存していない)、以後の回は全て写真が現存する。後年、白組司会を務めた藤倉修一の著書の中にも今回の番組風景を撮影したスチールが掲載されている(紅組司会の丹下キヨ子と藤倉が番組進行を行っている最中の模様を撮影したもの)。 * 藤倉が白組司会を続投したのに対し、紅組司会については前回担当者の加藤道子が「アドリブが利かない」と判断され丹下に交代となった〔『藤山一郎とその時代』、186~187頁。〕。藤倉のケースが紅白史上初の司会の複数回担当である。 * 正月開催だったため、ステージ上方には「謹賀新年」のプレートが飾られている。映像と音声は現存しない。 * 前回で応援電話によりNHKの電話回線がパンクしたことに備え、今回は専用の特設電話が設置された〔『藤山一郎とその時代』、186頁。〕。 * 出場予定の松島詩子は、乗っていた車がNHKに向かう途中に都電と衝突する事故を起こし重傷を負ったため出場が不可能になり、越路吹雪が急遽代役として出場した。当日越路は自宅で新年会の真っ最中で出場を依頼された時は泥酔状態だったが、時間が迫ると「じゃあ、行ってくるか」とNHKへ向かい本番では見事に歌い上げた。ちなみに、越路が歌唱したとされる曲目はNHKの公式発表では「ビギン・ザ・ビギン」とされているが、他の資料によれば、本来、「お江戸日本橋」を松島に歌ってもらうことで、白組の鈴木正夫と「民謡調対決」を企画していたこととの兼ね合いもあり、後に田端義夫の手によって大ヒットすることになる奄美地方の愛唱歌、「島育ち」をビギン調にアレンジしたものを歌唱したのではないか、とする説もあり、正確には判然としていない〔『藤山一郎とその時代』(187頁)では「島育ち」説を採用している。〕。 * また、越路以外にも、今回の出場曲については、公式発表と他の一部資料で食い違いがあるケースが多数散見されている(渡辺はま子は「火の鳥」ではなく前回に引き続き「桑港のチャイナ街」で紅組トリを務めた、など)。 * 放送中に松島の経過連絡が届くなど、ハプニング性が見られた。 * 白組トリである藤山一郎は、この年開催されるヘルシンキオリンピックのテーマソング「オリンピックの歌」を歌った。 * 両軍トリは2年連続で渡辺・藤山が担当、これが両軍共に番組史上初のトリの複数回担当である。 * 優勝は白組。 * 今回使用したマイクは、東芝A型ベロシティーマイクロホン。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第2回NHK紅白歌合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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