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第2次バロン戦争 : ウィキペディア日本語版
第2次バロン戦争[だいにじばろんせんそう]

第2次バロン戦争(だいにじばろんせんそう、Second Barons' War、1264年 - 1267年)はイングランドヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールを中心とするイングランド諸侯が起こした反乱。ルーイスの戦いにより反乱側が支配権を握るが、イーヴシャムの戦いでシモン・ド・モンフォールが戦死した後、王権は回復した。しかし、その精神はエドワード1世の改革やその後のイギリス議会制に引き継がれた。
==背景==
イングランド王ヘンリー3世は度重なる外征の失敗、外国人の重用、ヨーロッパ各国の王位継承問題への介入による財政難及び課税の強化といった失政を重ねた為、イングランドの諸侯聖職者の反発は高まっていた。シモン・ド・モンフォールは当初はフランスから渡って来てヘンリー3世に重用された新参者の1人だったが、やがてヘンリー3世と対立し諸侯のリーダーの1人と見なされるようになっていた。
1258年にシモン・ド・モンフォールをリーダーとする諸侯達は、選ばれた15人により王権を監視する「国王評議会の設置」と定期的に議会を招集する「議会に関する取り決め」を定めたオックスフォード条項をヘンリー3世に認めさせ王権に制限を加えた。
しかし、まもなく諸侯間の派閥争いがおこり、それに力を得たヘンリー3世は1261年ローマ教皇アレクサンデル4世の承認を得て、オックスフォード条項等の誓いを破棄した。それに対し改革派の諸侯は再び結束し、ロンドン市民など平民層も不穏な動きを示した為、ヘンリー3世は再びオックスフォード条項を承認した。その後、王太子エドワード(後のエドワード1世)が改革への理解を示した為、穏健派やシモン・ド・モンフォールに反発を抱く諸侯達は王党派に傾いていった。
これに危機感を抱いたシモン・ド・モンフォールはウェールズ大公を名乗っていたルウェリン・アプ・グリフィズと協定を結んだが、これがウェールズに有利な協定だとしてウェールズ辺境の諸侯が反発した。
一触即発の状態となったが、両派とも内戦を避けることを望み、当時、公正さで知られヨーロッパの調停者と見なされていたフランスルイ9世に調停を依頼した。しかし公正な調停者とはいえ、自身も国王であるルイ9世は国王の権限を大幅に制限するオックスフォード条項を支持せず、条項の廃棄と反乱者への恩赦を軸とした裁定を行った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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