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第32SS義勇擲弾兵師団 1月30日(独32. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division „30. Januar“)は武装親衛隊の師団である。 1945年1月12日、ソビエト赤軍第1白ロシア方面軍は、ヴァイクセル川沿いに防衛線を築いていたドイツA軍集団に対して攻勢を開始、A軍集団は圧倒的戦力差のために崩壊、1月31日までに赤軍はオーダー川東岸に達していた。この状況に際しドイツ軍は、投入可能な部隊をかき集め、オーダー川西岸へ配置、戦線の安定化を図った。 この危機に対し、親衛隊作戦本部は1月16日、演習場において第32SS義勇擲弾兵師団を編成、師団名称はドイツ総統アドルフ・ヒトラーがドイツ国首相となった日にちなんで「1月30日」とされた。 師団は武装親衛隊の最後の人的資源を用いたため、イスラム教徒、軍楽学校生徒なども含む雑多な部隊構成となったが、武装親衛隊最後の正規師団ともいえる編成であった。 ==初陣== 1945年2月初旬、師団、最初の部隊が編成されると直ちに第5SS山岳軍団の所属として戦線へ投入されたが、第5SS山岳軍団はすでに疲弊しきった状態であった。しかし第5SS山岳軍団は、ソビエト赤軍のオーダー川西岸橋頭堡(通称、楡屋敷)前面で赤軍の進撃を懸命に阻止していた。ソビエト橋頭堡の存在はドイツ軍にとって脅威と化していたため、その掃討は緊急を要しており、第32SS義勇擲弾兵師団などを中心として2月5日より反撃が開始された。作戦は初日に、さらに27日にはの奪還に成功し戦線を安定させたが、橋頭堡の掃討には至らなかった。 2月中旬、師団の各部隊は編成を終了、橋頭堡付近の戦線に投入され防衛戦を行った。しかし2月末以降、橋頭堡のソビエト赤軍が増強され、3月2日、再びフォーゲルザングに侵入した。このため師団の第32SS戦車猟兵連隊を中心とした部隊が反撃したものの撃退され、3月末にも再度反撃を試みたがこれも撃退された。4月上旬、師団は第5SS山岳軍団の命令を受け、フランクフルト・アン・デア・オーダー要塞部隊の撤退路を確保するために「クラウス戦闘団」、「シェットレ戦闘団」の2個戦闘団を編成、装甲部隊の大半を派遣した。さらに4月12日、師団の配属が変更され、第5SS山岳軍団から第9軍所属第11SS戦車軍団の予備部隊になった。師団の大部分は東部戦線の北西後方に配置されたが、ここには主力となる装甲擲弾兵師団はなかった。 1945年4月16日、早朝3時、ソビエト赤軍がベルリンへ向けて大攻勢を開始した。師団の担当地区である南西では、ソビエト赤軍の突破を許さなかったもののの、の戦線が突破された。所属連隊からの救援で一度は戦線を押し戻したが、ソビエト赤軍の怒涛の攻撃に飲み込まれ最終的に戦線は崩壊した。翌日、ソビエト赤軍はを渡り、ラウテンクランツ(内の集落)方面に進出したが、師団はこれを運河まで押し戻した。しかしツィルテンドルフ北方で突破され、こちらでは撤退せざるをえなかった。18日、師団の一部はへ撤退、4月21日までここを維持した。また師団は「フレンケン戦闘団」を編成して、18日にラウテンクランツ方面で反撃を加えたものの、撤退せざるをえなかった。さらに戦線後方では「クラウツ戦闘団」が、の東より進出したソビエト赤軍と激戦を交わしていた。 1945年4月19日の時点で師団は、-マルケンドルフ、、ラウテンクランツ北方で防衛線を展開していた。ところが師団の異動先である第11SS装甲軍団の戦線が危機的状況に陥ったため、2個戦闘団を引き抜いて北方に送ることとなった。そこで編成されたのが「シル戦闘団」、「クーアマルク戦闘団」であった。シル戦闘団は方面へ派遣されたが、「クーアマルク戦闘団」というと、交代部隊の未着のために20kmもの戦線に展開することになってしまった。これは1kmを20名で防衛することを意味していた。4月22日の時点で、シル戦闘団は付近で防衛線を構築しており、クラウス戦闘団はに向け撤退中であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第32SS義勇擲弾兵師団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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