|
第34回世界卓球選手権は、イギリス・バーミンガムにあるナショナル・エキシビションセンターで1977年3月26日から4月5日まで67の国及び地域、506選手を集めて開催された。当初イギリス卓球協会会長のチャールズ・ワイルズは、1974年3月6日、ロンドンで世界選手権を開く用意があると明らかにしていた〔ロンドンで77年に世界卓球開く用意 朝日新聞 1974年3月8日 朝刊15ページ〕。 団体、個人七種目中、圧倒的な強さを1961年の第26回世界卓球選手権北京大会から見せている中国が何種目を制するかが注目された。中国を追うと予想されたのは、ハンガリー、ユーゴスラビア、スウェーデン、ソ連、日本、韓国、北朝鮮などであった〔女子、初戦を飾る インドネシアに3-0 朝日新聞 1977年3月28日〕。 七種目中、中国が三種目、日本、北朝鮮、フランスが一種目、中国と北朝鮮の国際ペアが女子ダブルスで優勝した。中国の前陣速攻と異質ラバーを使った作戦に対して、ヨーロッパ勢は、パワードライブで対決した〔魔球の栄光・河野卓球 世界選手権総評 変幻中国、強打の欧州破る 読売新聞 1977年4月7日 朝刊16ページ〕。 会場となったエキシビションセンターは、スポーツ、レジャー産業の博覧会場として新設されたもので、選手宿舎はバーミンガム大学の学生寮が利用された。国際ルール上は、木または弾力のある人造床とするべきところを、コンクリートに塗料を塗っただけであった。荻村伊智朗はルール違反に加えて、足腰をやられる選手が続出するおそれを懸念した。 使用球には、イギリスのハレックスが用いられたが、日本製、中国製に比べて品質が不揃いのボールは、半円球の継ぎ目を赤道と見た場合に、南極、北極にあたる部分が極端に柔らかく、打ち方によっては卵形に変形するなど、各国の選手から不評であった〔硬い床・軟らかいボール 不評しきりの会場 朝日新聞 1977年3月27日〕。男子団体の予選リーグ、日本対ユーゴスラビア戦で、4-4で迎えた井上哲夫とコサノビッチの試合中、井上のドライブ気味の打ったボールは、宙に浮いた瞬間に割れて、そのポイントの取扱いを巡って、試合は10分間中断された〔(第2日)日本勢、好調な出足 女子は四勝目、男子二勝、ユーゴと接戦 朝日新聞1977年3月28日朝刊18ページ〕。 この大会からドーピングテストが実施されることとなった〔世界卓球選手権でドーピングテスト 朝日新聞 1977年3月4日 朝刊16ページ〕。 大会前には、ラケットの両面にラバーを貼る場合、表と裏の色を別々にするべきだという、異質ラバーの制限論が欧州諸国から出た〔「異質ラバー」に制限論 ネを上げる欧州 国際卓連に提案か 朝日新聞 1977年1月18日〕。 3月30日に行われた国際卓球連盟総会では、アマチュア資格を明確にする規則改正が承認された〔卓球選手アマ資格明確化へ規則改正 朝日新聞 1977年3月30日朝刊17ページ〕。4月3日に行われた国際卓球連盟総会で、第35回世界卓球選手権は、北朝鮮で、第36回世界卓球選手権は中国で、第37回世界卓球選手権は日本で開催されることが確認された〔。 == 政治的問題 == アパルトヘイトを行っている南アフリカ共和国へラグビーチームを派遣したニュージーランドが参加することからケニアが不参加であった〔ケニア不参加 世界卓球 朝日新聞 1977年3月2日朝刊16ページ〕。さらにガーナとトーゴも大会開幕前日の3月25日、電報でボイコットを伝えてきた〔ガーナ、トーゴが出場をボイコット 朝日新聞 1977年3月26日 朝日新聞 朝刊17ページ〕。 4月2日、中国チームはイスラエル選手との対戦を拒否する方針を明らかにした〔中国がイスラエルとの対戦を拒否 読売新聞1977年4月3日朝刊17ページ〕。これにより一回戦でイスラエルのS・メンデルソンと対戦する中国ランキング5位の王俊は失格となった〔対イスラエル戦拒否 中国の王俊選手 朝日新聞1977年4月3日朝刊16ページ〕〔王俊選手が失格 朝日新聞1977年4月4日朝刊18ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第34回世界卓球選手権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|