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第4611船団(だい4611せんだん)は、太平洋戦争中の1944年6月11日にサイパン島から日本本土へ出発した、日本の護送船団である。アメリカ軍によるサイパン島攻略作戦の事前空襲から逃れようとした日本船団で最大のものであったが、アメリカ海軍機動部隊に捕捉され、輸送船のほとんどは撃沈された。 なお、命名方式の関係で同名の船団が別年度にも運航されている可能性があるが、本項では1944年の船団を解説する。 == 背景 == 1944年(昭和19年)6月、アメリカ軍は、15日のサイパン島上陸に向けて作戦を進めていた。正規空母7隻・軽空母8隻を中心とした高速空母機動部隊である第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)は、上陸の事前攻撃と攻略船団の援護のため、6月6日にメジュロ泊地を出撃した。空母の存在を秘匿するため、アメリカ軍はあえて艦上機を飛ばさず、基地航空部隊により艦隊前路の哨戒を実施しながら航行した〔The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II 〕。 日本軍も、メジュロに集結していたアメリカ海軍機動部隊が出撃したことを6月9日の航空偵察で知っていたが、マリアナ諸島攻略よりもニューギニア島北岸やパラオへの襲来の可能性が高いと、誤った情勢判断をしていた。10日にはマリアナ諸島沖などにアメリカ軍の陸上哨戒機が異常に多数飛行していることから、敵機動部隊が付近にいる可能性が高いとまで推測していたが、依然としてその意図をつかみ切れていなかった〔『父島方面特別根拠地隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030275400、画像48枚目。〕。 サイパン島は防備強化の最中で、パラオ方面へ向かう航路の中継地でもあったことから、第3530船団などの軍用輸送船が多数寄港していた。このときマリアナ諸島に停泊していた主要な日本軍輸送艦船は、海軍徴用船を中心に26隻であった。一部は、第4610船団として水雷艇「鴻」以下の護衛で6月10日に横須賀方面へ出港する計画だったが〔『父島方面特別根拠地隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030275400、画像39枚目。〕、実際には11日段階でも未出発だった。なお、第4610船団という呼称は横須賀鎮守府担当地区の船団に用いられていた命名規則に基づく命名で、千の位の4はサイパン発・横須賀行きを、下3桁の610は6月10日出航を意味する〔岩重(2011年)、71頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第4611船団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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