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株式会社太平洋銀行(たいへいようぎんこう)は、1911年に無尽会社として創業し、1996年3月に債務超過に陥り経営破綻した日本の第二地方銀行である。 破綻後はさくら銀行(当時)が新たに出資設立したわかしお銀行に営業譲渡し、清算された。 == 遍歴 == 1911年に「相互無尽」という名の無尽会社として東京・神田神保町で開業。大日本無尽への統合にも加わらず独立を守った。戦後、「第一相互銀行」に転換したが経営危機を迎え、大日本無尽から相互銀行に転換した日本相互銀行の支援を受ける。しかし、再建後は富士銀行に接近して、日本相互銀行による救済合併を免れた。 バブル経済では、小林千弘社長(当時)の下で、不動産業やいわゆる地上げ業者への過剰融資を展開、1987年度決算では総資金量は6,000億円となり、当時の相互銀行業界69行中24位となった。しかし、暴力団が手がけた東京都八王子市内の霊園開発や、当時”地上げの帝王”と言われた最上恒産が1987年12月より行った東京都新宿区西新宿界隈の地上げをはじめとする2,000億円に上る過剰融資等、不明朗な営業姿勢をとる〔暴力団の組長だった尾崎清光は、1984年1月に入院先の病院で射殺されている。また、最上恒産会長の早坂太吉は尾崎と昵懇の間柄だった。地上げに関して同社は1988年3月、国土利用計画法及び宅建業法違反で刑事立件され、同年12月、東京地裁で有罪判決が下りている。また、1991年には倒産している。〕。これらは後に不良債権として経営を圧迫することになる。 1989年、こうした乱脈経営はついに行き詰まり、太陽神戸銀行(現:三井住友銀行)ほか都銀数行による管理体制に入る。同年10月第二地銀に転換し、「太平洋銀行」となるもバブル崩壊による経営危機で遂に破綻した。破綻後は、さくら銀行(現:三井住友銀行)が100%出資子会社してわかしお銀行を設立して譲受することになり、預金保険機構より1,170億円もの金銭贈与が行われた。 わかしお銀行は地域金融機関として営業を続けていたが、2003年3月に親会社の三井住友銀行(旧:住友銀行)を「逆さ合併(吸収合併)」し、わかしお銀行が三井住友銀行へ社名変更を行った。このことにより、奇しくも旧大日本無尽の流れ(日本相互銀行→太陽銀行→太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行)と、日本無尽に参加しなかった相互無尽の流れが、一つの銀行として誕生することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太平洋銀行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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