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第三十一戦隊(だい31せんたい)とは、日本海軍の戦隊の一つ。太平洋戦争後期に敵潜水艦を積極的に発見、攻撃するための対潜機動部隊として編成された。戦争末期には本土決戦に備えて敵上陸船団に対する水上戦闘任務に転用された。 == 沿革 == 太平洋戦争勃発後、次第に威力を増してきたアメリカ海軍潜水艦による通商破壊に対抗するため、日本海軍は1943年(昭和18年)11月の海上護衛総司令部以降、海上護衛関係の部隊編成を進めた。そのような流れの1944年(昭和19年)7月頃、日本海軍の連合艦隊司令部及び第一機動艦隊司令部では、サイパンの戦いで全滅した第三水雷戦隊司令部を再建して、対潜掃討部隊を編成することを要望した〔防衛研修所戦史室(1971年)、330-332頁。〕。他方、軍令部第12課(防備担当)からも、海防艦及び航空機を主体とする対潜攻撃部隊の構想が持ち上がった。これらの構想は、海上護衛総司令部参謀長であった島本久五郎少将の回想によると、大西洋の戦いにおける連合国軍の対潜機動作戦部隊()の活躍がUボートの封殺に成功したという評価に影響を受けたものであった〔。 そして、目的及び用法において両構想に共通性があること、現有兵力では複数部隊の編成は難しいことから、さしあたり1個戦隊が編成されることになった。その結果、1944年8月20日に第三水雷戦隊の残存駆逐艦を基幹とし、新造の松型駆逐艦から成る第43駆逐隊と海防艦5隻を加えて、第三十一戦隊が新編された。同年9月1日には新編の第933海軍航空隊も編入された。旗艦には第三水雷戦隊旗艦だった軽巡洋艦「名取」を予定されていたが、戦隊編成直前の同年8月19日に撃沈されてしまったため、急遽「五十鈴」が編入された〔。 創設された第三十一戦隊は、連合艦隊に編入された。対潜任務であるにもかかわらず海上交通保護を任務とする海上護衛総司令部部隊に編入されなかった理由は、軍令部第12課の十川潔中佐の回想によれば、海上護衛総司令部に運用を委ねると護送船団の直接護衛に使用されてしまい、本来の意図である独立した対潜機動部隊としての活動ができないおそれがあること、花形部隊である連合艦隊所属としたほうが士気が高まることにあったという〔。これについて、海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は、兵力不足の海上護衛総司令部では第三十一戦隊が船団護衛に使用できれば南方航路の護衛が3割増強できると期待していたが、連合艦隊の大型艦の対潜護衛に回されてしまったと考えて不服だったと回想している〔大井(2001年)、307-309頁。〕。なお、大井篤の回想は、護衛の立場からの意見として船団護衛兵力不足を解消するため第三十一戦隊に限らず連合艦隊所属の駆逐艦を船団護衛に転用する選択肢にも言及しているが〔大井(2001年)、306頁。〕、軍令部第一部長であった中澤佑中将や戦史叢書『海上護衛戦』の編纂に関わった小山貞大佐(戦後は防衛庁防衛研修所戦史室調査員)らは連合艦隊所属の艦隊型駆逐艦は貴重な艦隊決戦兵力であり、対潜能力が低く船団随伴の低速行動にも不向きであったなどとして、かかる選択の有効性に疑問を呈している〔防衛研修所戦史室(1971年)、442-445頁。〕。 海上護衛総司令部の要望も受け〔、第三十一戦隊はルソン海峡での対潜訓練を兼ねた船団護衛など南シナ海方面を中心に作戦行動を行った。しかし、1944年11月25日に旗艦として使用中の駆逐艦「霜月」が潜水艦に撃沈され、江戸兵太郎少将以下戦隊司令部が全滅した〔。そこで、同年12月1日に鶴岡信道少将を司令官として司令部が再建され、マニラに進出した。1945年(昭和20年)1月23日には高雄市に後退し、護衛と輸送任務に従事した。 1945年5月、本土決戦に向けた戦備が進められる中、第十一水雷戦隊とともに本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務に充てられることになり、海上挺進部隊の軍隊区分に属することになった。 なお、第三十一戦隊以外の対潜攻撃部隊として、海上護衛総司令部部隊の第一海上護衛隊でも、1944年7月に独自の掃討小隊と称する軍隊区分を創設している。この掃討小隊は、護送船団周辺で護衛に当たりつつ、機に応じて行動して敵潜水艦を捕捉攻撃する任務が与えられ、船舶被害の多いルソン海峡での作戦に従事した。同年8月にはフィリピンの戦いに向けた増援部隊輸送作戦のため、連合艦隊などから第一海上護衛隊の指揮下に護衛艦艇が増強されたのを受け、1個小隊につき海防艦または掃海艇4隻体制の3個小隊が投入されている〔防衛研修所戦史室(1971年)、354-355頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第三十一戦隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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