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第3次グラッドストン内閣()は、1886年2月から8月まで続いた自由党党首ウィリアム・グラッドストンを首相とするイギリスの内閣である。 == 成立の経緯 == 保守党政権第1次ソールズベリー侯爵内閣期に行われた1885年11月のは、自由党が大勝した後の総選挙であるから自由党が議席を落とすと予想されたが、ジョゼフ・チェンバレンの「」キャンペーンが奏功し〔神川(2011) p.380〕、自由党334議席、保守党250議席、86議席という結果に終わった〔君塚(2007) p.193-194〕。 これまで自由党党首ウィリアム・グラッドストンはアイルランド自治の方針を明確に公表しなかったため、アイルランド議会党は保守党政権寄りの態度を取っていたが、この選挙後、新議会の召集までの間にグラッドストンはアイルランド自治の方針を公表した。これにより1886年1月21日からの新議会では自由党とアイルランド議会党の連携が成り、第1次ソールズベリー侯爵内閣は1月27日の庶民院の採決に敗れ、総辞職を余儀なくされた〔君塚(2007) p.194-195〕〔神川(2011) p.383-384〕。 グラッドストンを嫌うヴィクトリア女王は自由党内でアイルランド自治に反対するジョージ・ゴッシェンや第8代アーガイル公爵ジョージ・キャンベルを召集して後任首相について諮問しようとした。しかし両名ともグラッドストンに造反する勇気はなく、参内を拒否した。そのため女王は2月1日にもグラッドストンに三度目の組閣の大命を与えることを余儀なくされた〔君塚(2007) p.196〕。 しかしハーティントン侯爵スペンサー・キャヴェンディッシュ(後の第8代デヴォンシャー公爵)らホイッグ貴族の大半はアイルランド自治の方針に反発してグラッドストン内閣への入閣を拒否した。それでもなお入閣に同意したホイッグ貴族をグラッドストンは重要ポストに付けて厚遇している(第2代グランヴィル伯爵、第5代スペンサー伯爵、第5代ローズベリー伯爵、初代キンバリー伯爵、サー・ウィリアム・ハーコートなど)〔神川(2011) p.386〕。 新急進派のジョゼフ・チェンバレンも入閣したが、グラッドストンは彼については厚遇しようとせず、彼の植民地大臣就任の希望を退け、職を与えた〔神川(2011) p.388-389〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第3次グラッドストン内閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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