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第三次マイソール戦争(だいさんじマイソールせんそう、英語:Third Anglo-Mysore War, カンナダ語:ಮೂರನೇ ಮೈಸೂರು ಯುದ್ಧ, タミル語:மூன்றாவது ஆங்கில மைசூர் போர்)は、1789年(あるいは1790年)から1792年にかけて、イギリス東インド会社とマイソール王国との間で南インドで行われた戦争。 この戦争はティプー・スルターンのケーララ地方侵略が直接の契機となって勃発し、イギリスはマラーター王国とニザーム王国と組んでマイソール王国と戦い、最終的にその首都シュリーランガパトナを包囲した。 講和後、マイソール王国はその領土の半分を同盟国に割譲し、多額の賠償金を支払わなければならなくなり、その国力は大きく削がれることとなった。 ==開戦に至る経緯== ===マイソール王国と近隣諸国との関係=== 1784年3月、第二次マイソール戦争が終結したのち、デカン地方および南インドの情勢は不安定となった。1785年以降、マイソール王国はマラーター王国と交戦状態に入った〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p〕。これには以下の理由があった。 第二次マイソール戦争中の1782年5月、マラーター王国の財務大臣ナーナー・ファドナヴィースはイギリスとサールバイ条約を結び、第一次マラーター戦争を終結させた〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p〕。1780年、マイソール王国とマラーター王国は反英同盟を締結させていたため、これは盟約に違反するものであった。マイソール王国の支配者ティプー・スルターンはこの裏切りを恨み、マイソール王国とマラーター王国の対立は終わらなかった〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p〕。 マラーター王国はマイソール王国に本国まで攻め入られ、これに苦しんだナーナー・ファドナヴィースは同くマイソール王国を警戒していたニザーム王国と同盟を組んで対抗した〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.205〕。その後、1787年2月にマイソール王国とマラーター王国との間で和睦が成立し、ガジェーンドラガド条約が締結された。 とはいえ、それ以降もマラーター王国はニザーム王国とともに、マイソール王国に対して警戒に当たり続けた〔。両国にとって、マイソール王国とティプー・スルターンの軍事的脅威による憂いを排除することはもはや最優先課題となっていたのである〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第三次マイソール戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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